おはようございます。
昨日は最後に、まずは自分自身からという言葉で結びましたが、キリスト教にも「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉があると聞きます。マルコの福音書の12章からですが、わたしは昨日挙げた福音書のものより、こちらの方が安心するし、慈愛ということに関しても、こういうものだという結論ではなく、生涯をとおしてその意味を自分自身で学んでいくものなのだよ、と諭されているような、そんな感じを受けます。
まぁ、「自分を愛するように」と訳す人もいるでしょうが、それだと何だか自分勝手とか、そういうイメージも浮かんでしまいます。やっぱり「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」の方がシックリくるし、一番身近でいつも一緒にいて、一生付き合っていかなければならない自身を愛せなければ、隣人も愛せないと思うのです。
自身つまり自分のからだ。自分のからだは自分で支配しているわけではない。からだにもパーソナリティがある。身心(みこころ)であり、身だけの物ではないということ。自分の心と身心(みこころ)は本来、1は2であり2は1であるものだと思う。
しかし、現代人は身心の心は隅に追いやり、表面的自我優位の自分の心だけで、からだは自分の物としてしまうところが多分にある。自分のものは自分のものかもしれないが、自分自身は2であり2は1である、という捉え方が必要だと思う。生かされて生きている。自分自身は愛と調和の賜物である。
自分が自身を愛せて、はじめて他人様を愛して調和することが出来てくるのではないだうか。自分自身を粗末に扱っていて、それが普通と感じていれば、自分以外のものや他人様も粗末に扱ってしまうのではないだろうか。まずは自分自身から。自分自身を愛する事が出来て、利害関係なしで隣人も愛する事が出来る。
そうは言っても、なかなかそう出来ないのも、五官の本能や欲を有する人間の性(サガ)だと思う。だから学んでいくものなのではないだろうか。生命活動をとおして一生学んでいく。
その度ごとに反省して、懺悔して、気づきを得て、感謝して、その繰り返し。繰り返しといっても、堂々巡りのようなものではなく、循環して渦を巻き、渦が大きくなるように生長していく。そんな感じなのではないだろうか。
イエスは慈愛の規範を示してくださったが、そのとおりにしなければいけないというものではないと思う。イエスの教えが、人間を縛っているとしたら、イエスも悦ばないと思う。
それぞれが、生かされて生きていく中で自分自身で愛を学び、学んだ中から愛を提供し、慈愛をかたちにしていく。それが個性真理体としての、イノチを授かり生まれてきた、それぞれの人の使命なのではないだろうか。
「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
4月29日(祝)に開催いたします。
『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980