昨日の続きになりますが、皮膚の学びの中で操者と被験者の「快の共有」をつかんだことで、動きを行う臨床の際にも同じ意識感覚で取り組むことにしました。
その意識を第一に臨床に望んだことで大きく変わったことは、からだを主体にした臨床の組み立てが出来るようになってきたこと、そして臨床の中で自身のからだが大きく変化してきたことでした。
そんな変化の中で臨床そのものとの向き合い方も気が軽くなったことも覚えています。
それまでの自分の臨床の向き合い方は「やったらやった分だけ良くなる」という感じが心のどこかにあり、患者のからだの為に常に気を張っていたように思います。
それが次第に臨床も自分の意識が変わったことで、自身のからだが臨床の空間を愉しみにし、癒しの場として望んでくれるようにも感じました。
そういった意識とからだの感覚的な変化の中でわかったことは操者が正当なからだの使い方が出来なければ、きもちよさを、そして感覚を共有することは出来ないということでした。
つまり般若身経の習得が出来なければ、患者に指導することはもちろん、実際に患者が動いて感覚を聞き分けることは出来ないということがわかったのでした。
そんな操体の片鱗が垣間見えた時の感動は今でも忘れられません。
この気付きは私にとってかけがえのない財産となり、それからの私は般若身経の習得と正当なからだの使い方の中での感覚の学習に軸にしていったのでした。
そしてそれと並行し、次のステージである空間を介した臨床の学びに足を踏み入れたのです。