東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

p1*[岡村 郁生(おかむら いくお)] 医療水準と操体、その七

日本の古語に「イヤサカ!」という言葉があったそうです。
「いよいよお栄えあれ」と云う意味らしいのですが、物質的繁栄や成功祈願ではありません。
ひとりひとりの精神的な”生長(精神的成長の意)”に「イヤサカ」を・・・といった意味する言霊なのです。

私はここで急に、自身の「イヤサカ」に元々繋がってきた書籍を思い出しました。

快からのメッセージ―哲学する操体

快からのメッセージ―哲学する操体

(p224から引用します)

〜(前略)〜常識として理解されている多くの事象は、人間の合理性にもとづいていることが多いものです。
 そして、時にこの常識は、人間性を歪めるように働きかけてきます。
 しかし、この「大生命の理に生かされている」という真理に気づくと、
 今までの常識と思っていたものが虚になるのです〜(ここからが真骨頂です。是非購入を!)

言葉とはどうして心に響くのでしょう。
操体法」を治すテクニックと考え、『これからどんな奥の手(操体法)を教えてもらえるんだろう』と、
ワクワクして、欲得心でブレブレだった場合には、「操体」の真価はわからないのです。
まあ、わからなくても臨床の効果はあることでしょう。それはそれで構いません、自己責任ですから。
ですが、「操体」を学ぶには、「品性」がどうしても必要なのです。
 
(死という区分から放たれる自由)

人に思い出される限り、その人は死なない。少なくともその人の中で生き続ける。
お洒落とは、なにが自分らしいのかわかっていること、そう何か教えてくれたのは義父(私の実母の再婚相手であり実弟の父)です。
社会的束縛を嫌い、常に自由であることに誇りを持ち、初対面の子供にも好かれるような、不必要な刺激を与えない人でした。

そんな義父は、6年前に白血病と診断され、心不全により他界しましたが、その最期に立ち会ったことを書きます。
昨日の叔母同様不思議なことに、私と家族全員は呼ばれたのでしょうか?偶然にお見舞いに行っていたのです。

義父の最期を看取ってくれた担当医は、穏やかな言葉を選びつつ、言いました。
決断の時間がないこと、あらゆる抗生物質が効かない状態であること、肺が機能していないので処置が必要になったこと。
選択は二つ。一つは人工呼吸器をつけて呼気を補助する、但し二度と外せないので本人は苦しいということ。
もう一つは、本人の自力による呼気が続く限りそのままで経過をみること。但し呼吸が自然に復活する可能性はないこと。

私の母は「少しでも長く生きられるのなら人工呼吸器でもいいんじゃない」と決断できません。
ここで私は、三浦理事長から教授されている「診断」方法を通して決断を通してみました。
その結果を伝え「本人の意志を最優先するのなら、こちらだよ、そのままを望んでいるよ」と伝え、この決断は通りました。

誰一人として反対しなかったからでしょう。
決断を促した担当医は大きく頷きながら、こう教えてくれました。
「私に言っていたんです。自然にして欲しい、何よりも自然がいい、そう本人も望んでいました」・・・と。

それから一時間ほどでしょう・・・ゆっくり血圧は下がっていき、家族の見守るなか、静かに静かに脈は少なくなって止まりました。
変なことを言うようですが、本当に苦しんでいた義父は、苦しみを一つ一つ落としていきながら息をひきとったように感じました。

おかしな言い方かもしれませんが、人が亡くなる瞬間とは何が起こるのか、立ち会うことを許されたかのように思えました。
それは「器質異常」から「機能低下」に「機能低下」から「感覚異常」に変化し「歪み」から元に戻っていく瞬間のようでした。


「法(おしえ)を聞かないものは、臨終時に 身と心の二重苦で悩まねばならない。
 しかし 法を聞く者は、心の安らぎを得ているから 身体の苦しみ一つで済む」
                          〜釈尊
「死ぬときは苦しかったら、ウーン、ウーンと誰にも遠慮することなく、苦しみもだえて死んだらいいんだ」
                     〜鎌倉円覚寺、朝比奈宗源管長〜

これは死や痛み、苦しみ受容したような言葉ですが、私自身には優しい、ある救いのように思えるのです。

「生」は勿論、「死」も自分事なのだとはっきりと自覚が必要であり、そこからまた自分を抜き去ることで理解する。
他人事ではなく平等に与えられた権利100%が「死」と「生」であり、痛みも苦しみも、その受容次第で変化しています。
何%ほど受け入れて、拒否しているのか、これによって生きかたも変化してくるのが「自然法則」ではないでしょうか。

そして、医療水準を考えてみるとどうやら、人間の生き方次第ではないか、そう思えるのです。

そして問いかけの最後に、最近気になる橋本敬三師の言葉を挙げます。

「からだの設計にミスはないという本に題名つけるとき、
 僕初め『人間の設計にミスはない』って書いたんだけども、 
 それは別として、人間の設計にミスがなくできている。良くもなるし、悪くもなる」(p128より抜粋)
                                                    
・・・どうして「からだ」ではなく「人間」の予定だったのでしょう?・・・・

まだまだ伝えたいことはありますが、纏まりに欠けているようでして、(失礼しました)
やはり一皮剝く必要がある私には「編集」の学びこそ必要なんじゃないだろうか?ということで、
畠山常任理事に紹介して頂き今後4ヶ月の間、松岡正剛先生のISIS編集学校「守」を学び通して参ります。
ともあれ、長文乱文でのお付き合いとなりましたが、一週間ありがとうございました。

明日からは、文章力そのものを体現する兵庫の日下実行委員です。
どうぞよろしくお願いいたします。