東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

操体庵ゆかいや物語(2)

こんにちは、佐伯惟弘二日目のブログです。私がアメリカ、ペンシルベニアから三浦寛先生に電話をしたところから始まります、、、さてどうなることやら?


■いざ出陣


「ブル、ブル、ブル、、、はい。」
「あっっ、、、、私、佐伯と申しますが、三浦先生は、いらっしゃいますでしょうか?」
「私が、三浦ですが。」


受付嬢が電話の窓口にいると思っていた私は、三浦先生が直接電話を取られるとは、思ってもおらず、、、、、頭が真っ白、、、、なにを喋ったかあまり覚えておりません。


ただ、三浦先生がおっしゃった「君は、そんなに操体を勉強したいのか?ならば、私のところへ、来なさい!」
という嬉しいような、怖いようなお言葉だけはしっかりと覚えています。


「あのう、、、私は、今、アメリカに住んでいるのですが、、、、、」
と即答を避ける返事をすると、
「そんなことは、どうでもいい、学びたいなら来なさい。」
あまりにも強引で、ドスのきいた声に圧倒されっぱなしの私は、漫画作家の梶原一騎と三浦先生をダブらせたイメージで思い浮かべていました。


「、、、そうしましたら、、、私のアメリカでの荷物を先生の研究所に送ってもよろしいでしょうか?」と、ぶしつけな質問をしてみました。
「いいよ、今から私の住所をいうから、、、、、、、、東京都世田谷区、、、」
太子堂ですよね。」


操体法写真解説集の212ページに記載されている住所を私が読み上げると、
「君、人の話を良く聞きなさい。」
と一喝。私のがさつな性格をその一言で見抜かれてしまいました。
「いいかい?三軒茶屋1−36−3 ルミネ三軒茶屋105。」


操体法写真解説集が発行された1979年、三浦先生は太子堂黒柳徹子さんが住んでおられた家を治療所にされておられたそうです。そのため、写真解説集には、以前の住所が記載されていたのです。しかし、電話番号だけは、当時の電電公社と何度も交渉し、変更しなかったのだそうです。


もしあの時、三浦先生が電話番号を変更されていたなら、、、、、きっと、別の人生を歩んでいたことでしょう。
「電話番号だけは、変えるな!」
と事あるごとに、三浦先生がおっしゃるその意味を、しみじみ実感しています。


今でも、操体法写真解説集の212ページには、アメリカのボールペンで書いた「三軒茶屋1−36−3 ルミネ三軒茶屋105」の文字が残っています。


私の、操体人生はここからスタートしたといっていいでしょう。


とはいうもの、このドスのきいた声の持ち主の言うことをそのまま信じていいのか?という一抹の不安が頭をよぎったのも事実です。あれだけ自信に満ちた声の持ち主は、本物か、ペテン師のどちらかに違いない、、、


勝負事に弱い私は、一人では決心できず、フジコさんという女性に相談を持ちかけました。彼女は、クリスチャンサイエンスという心霊主義を取り入れた新興宗教の熱心な信者で、霊能力の持ち主です。橋本敬三先生も「クリスチャンサイエンス」と「生長の家」の教義の素晴らしさは認められています。
彼女は、祈りで病を癒すことが出来る方で、海外にも呼ばれてお祈りをされていました。


そんな彼女が、
「ヒロムさん(私のこと)、飛びこんでみたら?操体は素晴らしい治療法だと思うし、大丈夫よ!」
と、笑顔で勧めて下さりました。その一言で、心のなかの霧が一気に晴れわたり、東京の三軒茶屋に旅立つ決心ができたのです。


翌日から荷物を整理し始め、部屋は段ボール箱の山。しかし、やっかいなことが、、、


1995年、アンダーソンギャラリーで個展を行った時の作品(といっても、原木の輪切り数トン、巨大な流木、錆び付いた鉄のかたまり等)が、元妻の実家に残ったまま、、、、、
敷地にある小高い丘に、羊の餌であるヘイ(干し草)を貯蔵する納屋があります。その一角を私のアトリエにし、原木の輪切り数トン等を置いていたのです。


困っていた私に手を差しのばして下さったのが、日本から、家族3人で私の住む街に引っ越してきたマークさん。彼の奥さんは、日本人で男の子が一人います。


彼の曾じいさん、じいさん、お父さんはプロ野球選手。そのお父さんからは、様々なエピソードを伺いました。彼は、キャッチャーの持病膝痛のため、若くして引退したのですが、高校生に野球を教えました。そのなかに、ニューヨーク・ヤンキーズのスーパースター、レジー・ジャクソンがいたのです!


27年前の私は、ニューヨークの安アパート住まい。拾ってきた白黒テレビでレジー・ジャクソンの雄姿を見るのが最大の楽しみでありました。彼はミスター・アクトーバー(10月)と呼ばれ、10月に催されるワールドシリーズでは、常に大活躍するのです。彼の力強く美しいスイングを見るだけで心が躍り、幼い頃みた長嶋茂雄とイメージが重なり、、、私はもう夢心地。


そんなレジー・ジャクソンを教えていた!!全身、、、鳥肌。


その上、曾じいさんは、第一回のワールドシリーズで3勝投手。にもかかわらず、チームは優勝できなかったことで有名な選手でした。


インターネットで検索。


出て来ました!1903年、ピッツバーグ・パイレーツボストン・レッドソックス。3勝5敗でピッツバーグ・パイレーツは世界一逸す。3勝はデイコーン・フィリッペ(Deacon Phillippe)。よくよく調べてみると、祈念すべき第一試合は、あのサイ・ヤングと投げ合い、勝利しているのです!!


うう〜ん、随分と横道にそれてしまったようです、、、、そう、、そのマークさん。


彼のトラックで私の作品を運んでくれることになりました。幸い、原木の輪切りはストーブの薪として活用して戴けます。私の気に入った三枚の絵は、それぞれ子ども達に渡すよう元妻に伝え、残りの絵は捨てるつもりでいました。


ところが、マークさんが買って下さったのです!


何という優しさでしょう。私は思わずこの国を離れることに躊躇さえ覚えました。このような素晴らしい方々に支えられ、徐々に私の人生をピンチからチャンスに変える事が出来ていったように思います。そして、このような方々のためにも、操体を修得しアメリカに再び戻ることを心に誓ったのでした。


さあ〜、東京・三軒茶屋にいざ出陣!


(つづく)
佐伯 惟弘