東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

操体庵ゆかいや物語(1)

ブログをご覧になっておられる方、はじめまして。今週から1週間の担当を仰せつかった佐伯惟弘です。どうぞ宜しくお願い致します。


まずは、簡単な自己紹介から。
1954年(昭和29年)愛媛県生まれ、血液型A。独身(ばつ1)京都府美山町の茅葺き家を「操体庵ゆかいや」と称し生活している。


などと、書き始めると少々かたっくるしくなるのでこれくらいにして、、、
私が三浦寛先生と巡り会い、修行を始めたころの様子を中心に紹介いたします。


■アメリカで操体


時は、2000年の7月4日アメリカ独立記念日。私は妻、子供3人、猫2匹とアメリカへ移住いたしました。妻は日本語ペラペラのアメリカ人。彼女の実家は、ペンシルベニアのステートカレッジという学園都市にありました。彼女の母親は、1万坪もある敷地で小さな二階建ての家に羊、山羊、ニワトリ、犬、猫、セキセイインコたちと悠々自適の一人暮らし。そこへ我々が突然押し掛け、一緒に住むことになったのです。


妻は、私の弟夫婦と母親が、孫を囲んで三世代楽しく過ごしている愛媛の生活に強い憧れを抱いたようでした。また、半年前に妻の父親が亡くなったこともあり、母親を慰めるためにも一緒に暮らしたいと思ったのでしょう。


しかし、日本のようなある程度の妥協と、おおいなる思いやりの三世代同居は、アメリカの徹底した個人主義の元では生まれにくいようです。
母親は、forever toys (www.charleenkinserdesigns.com/)という会社を持つデザイナーで、数々の賞を受賞している芸術家のため、わがまま。
亡くなった父親は、31アイスクリーム(ピンクと茶色)等のデザインをしたデザイナーでやはり若くして国際的な賞をもらっています。そんな両親をもつ妻は、才能あるフリーライター


こんな二人が同じ屋根の下で生活するのは、どう考えても無理。二大勢力が火花を散らして行くにしたがい、私の居場所がだんだん無くなっていきました。日本にいる時でさえ、彼女の大きなお尻に敷かれて身動きができない状態(日本語の口ゲンカでさえいつも負けていました)であったのに、水を得た魚のように、活動を始めた彼女はもう怖いもの無し。私はいつしか家を追い出され、気が付けば、モーテルを改築した安アパートに転がり込んでいました。


皿洗いのバイトをしながら、指圧で生計を立てようと思い、近くの健康センター(center for well-being)で指圧のまねごとを始めました。アメリカでは州ごとに法律が違うため、指圧資格の有無は州政府に任されています。私の住んでいたペンシルベニアでは、必要ありません。そのため、簡単な面接と指圧の施術を面接員にしただけで、即、採用されました。


なんともまあ、いい加減なものです。採用した健康センターもそうですが、指圧のまねごとで生活しようとした私が、、、


ただ、身寄りもなくアメリカの広大な土地に放り出された私には、手っ取り早く現金を手にするには、この方法しかなかったのです。


私はなぜかしら指圧には自信がありました。
幼い頃から神経性胃炎を患い、夕方になると腹痛を訴えることがしょっちゅう。それを父親が指圧で治してくれました。我が家の生活には、指圧が欠かせないものだったのです。


父親は、月に1度は「おおとや」という指圧師の施術を受けていました。この「おおとや」さんは、野口整体を修得している達人で、野口晴哉先生とも常に連絡を取られるような間柄だったと聞いています。


達人の施術を受けていた父親の指圧はなかなかのものでした。うつ伏せになった私の腰背部(腎喩辺り?)に拇指を軽く押すだけで、気持ちよさが頭頂部にまで伝わり、腹痛が治っていきました。どうもそのころから、「気持ちよさでからだが良くなる」ということを体感していたようです。いつの間にか、その感覚をたよりに、父親へ指圧をするのが私の日課になっていました。


今思うと、アメリカの地で指圧師として生きようとする事は自然な流れだったのかもしれません。しかし、現実は厳しく、全くクライアントが付きません。結局、皿洗いのバイトを続けるしかありませでした。


私の勤めていたイタリアンレストランは、街でも評判のお店。土日ともなると、お客で溢れかえり、調理場は戦場と化していきます。午後5時から真夜中の2時まで勤務の私は、最も過酷な戦士。「どうせなら、世界一の皿洗いになろう!」と心に決め、効率の良い洗い方、皿の置き方を考えました。


洗い場は、白いタイル張りの床。真ん中には大きなステンレスの棚があり、洗浄機から取り出した皿を重ね置きます。
この時、スニーカーを履いて動くとすべって効率が悪く、足にも負担がかかります。そこで、地下足袋を履いてみることにしました。すると、地下足袋のゴムが床にフィットし、滑りません。


しかも、拇指の付け根を支点にして、まるでフィギャースケートの選手のようにくるっと回転でき、効率よく楽しく、気持ちよく仕事ができます。この動きを修得してからは、自分自身を「忍者」と呼び、また他の従業員からも絶大な信頼を得たのは言うまでもありませんでした。「ヒロ(私の呼び名)は、マイヒーロー」と呼ばれたものです(自惚れ過ぎですネ!)。


実はこの動き、操体における身体運動の法則(重心安定、重心移動の法則)に則したものです。
重心を安定させる場合のポイント1つに、足は親指、手は小指という大原則があります。
また、からだを捻転する場合は、捻転する側の足の拇指の付け根に重心がかかるのが自然の動きです。 


足の拇指の付け根を支えにして、くるっと回転するのは身体運動の法則(重心安定、重心移動の法則)に則しているばかりでなく、足の拇指の付け根から頭頂部までが回転するコマの中心軸のようになるため、力みのない、バランスのとれた動きが生まれることになります。


拇指と第二指の間に切れ目を入れた地下足袋は日本人の叡智です。この切れ目により、拇指の動きが自由になり微妙なバランス感覚を感じ取りやすくなります。その結果、身体運動の法則(重心安定、重心移動の法則)を日常生活の中で、実践することが可能になるのです。


恐るべきは、自然の法則、そして、それを理解していた我々日本人の祖先です。


しかし、もっと恐ろしいのは、、、、、私。全く操体を勉強してもないのに、柏樹社の写真集(操体法写真解説集)を頼りに、操体施術を数人にやってしまったということ!!元々、脳天気なうえに無神経。操体いや自然法則に対しての冒涜!!


今、考えただけでも背筋がゾーッとします。そして、施術を受けた人に対して申し訳ない気持ちでいっぱいです。


ただ、凄いと思ったのは私のいい加減な操体でも、クライアントにからだの変化が見られ、施術前より少しは良くなったということです。
そこに、操体の底知れない魅力を感じました。操体を勉強しようと確信したのは、やはりこの事実があったからです。
早速、操体法写真解説集の212ページに記載されている3カ所の連絡先に、電話をしました。


まず、宮城教育大学川上研究所、、、、、、つながらない。
続いて、温古堂診療所今村時雄、、、、、、つながらない。


えええっ、、、、、、人体構造運動力学研究所三浦寛、、、、一番連絡したくなかったところ。取っつき難くそう!と思いつつも電話をしていました。


「ブル、ブル、ブル、、、はい。」


(つづく)


佐伯 惟弘