家から15分ほどで多摩川の土手があり、時々夜のウォーキングを愉しんでいる。
土手にのぼると、街灯がなくなりいきなり暗くなる。
アスファルトの道がぼおっと浮き上がって見える。
視覚が頼りなくなり、、一気に視覚以外の感覚がはたらきだす。
この季節に咲く花の香り。
さかなの跳ねる音。
湿り気のある風が頬を撫でる感じ。
どれもこころよい。
目が見えないことで急に視覚以外の感覚がとぎすまされる。
目が見える人は、80%以上を視覚で外界を認知して生きている。しかも、通りに出れば求めてもいない過剰な情報が我々を覆いつくし、我々を無駄に消耗させている。
意識して感覚を統制しなければ、視覚以外の以外の感覚は鈍っていくばかりかもしれない。
土手の上にのぼり町のネオンが消えた時、私はホッと安堵感を得る。
今にして思えば、
余計な気遣いが消え、嗅覚、聴覚、触覚が開放され、この香りが、この音が、肌触りが、
快いのかそうでないのか、好ましいものを選択し、そうでないものにはNoというそういう自由を与えられたような気がしたのだ。
目が見えないことで自由になれるなど、考えたことがなかった。
川べりを更に目をつぶって30歩歩いてみる。
少し曲がれば川に落ちるかもしれない。
平衡感覚、風の流れ、草がかすれる音。
先ほどまでひらひら舞っていたこうもりの姿。今の私には目をつぶると彼らを意識をすることができない。
でも、彼らはそこにいる。夜の川の流れる上を舞っている。
今の私が感じられること、感じられること。
夜歩くことは、昼とは違う楽しみがある。
森田珠水