東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

いろんな学び方がありますが・・・

呼ばれて飛び出てジャジャジャジャ〜ン!
ご主人サマ、何の御用でごじゃるか?



OOちゃん「今週一週間、ブログ担当を頼みますわよ〜」


というわけで。帰ってきた茅ケ崎のヒヨッコ龍こと?岡村郁生が担当いたします。



どうか優しい目で・・お見守り下さいネ。(あっそちらの方はもう冷たい目で見てる!)


そして一日目のお話は?ででゃ〜出ました!某?信長の野望からヒントを得たので始まり始まり〜。(優しい目でネ!)


<なせば成る なさねば成らぬ何事も 成さぬはひとのなさぬなりけり>


とは250年ほど前に米沢藩主であった上杉鷹山公が詠んだものです。


(恥ずかしながら、上杉謙信公が詠んだものと思っておりました)



鷹山公は9歳で日向の高鍋藩(今の宮崎県)から東北の米沢の上杉藩(今の山形県)に、養子として遠路はるばる移動した後、17歳で藩主となったのです。


昔は元服も早かったのですが、小学3年生で養子になって高校2年生で藩主とは・・・(伊代ちゃんも16で歌手になったけど?)


当時の上杉藩は、始祖である謙信公の時代にあった数百万石の領地が関ヶ原の戦いに敗戦したこと等で十五万石まで減らされてしまったのですが、家来の数はそのままであったことや、東北の大飢饉などが重なってしまい藩の財政はどん底だったのです。


そこからが!鷹山公の素晴らしいところでした。


政策として自らが規範となり、家臣・領民が一丸となって倹約令、つまり「もったいない運動」を行い、今で言う少子化対策も行いながら教育施設“明倫堂”をつくり、基本となる農業の振興に努めていくことでその危機を乗り越えたのです。


一つのことをなし遂げよう!とすれば、必ず何かを排除しなくてはなりません。
何が今の自分にとって重要であり、また不必要なのか?
結果を見越した上で判断することで、一時的な快楽に走ることなく
本質をとらえる努力を惜しまずに、常に考え続けたいものですネ。


このような成功例は世界に知られることになり、あのアメリカのケネディ大統領も「上杉鷹山公は、日本で一番尊敬できる政治家だ!」とコメントしています。


私は後半の“成さぬは人のなさぬなりけり”がツボになりますネ。
成功・実現に必要なことは、必ずやり遂げてみせるという意志であり、想いを強く持ち続けてはっきりしたイメージを描き続けることにあります。


「やってみなくちゃわかんないんだから、やってみろ!」という橋本敬三先生の言葉にあるように、せっかくのチャンスを自分のモノにできるかどうかは全て自己責任なのです。


「へえ〜ほ〜う、なるほどね〜」と思ったとしても、実際に自分のものにするためには、その場で感じたことを、実際に自分の身をもって体感することが一番です。


思っているだけでなく行動に移すこと。絵にかいた餅を眺めているのではなくて、実際にもち米から蒸かして突くことで粘りが出て、手に感触が伝わり、おいしそうな艶が加わり、
食べてみることで至福の瞬間が訪れるのです。


行動を起こすヒントは世の自己啓発にたいする様々な本にお任せしますが、実際に行うべきことは、皆内容は同じであるように思います。


この世の中に、自分と言う存在が成り立つ道がある。
生かされている意味がある。大いなる意志がある。


魂の成長を伴う目的意識の上にできる限り、自分を乗せていくこと。
実感することができる現象の素晴らしさを大いに楽しみ、美しいものを美しいと見て、聞いて、見て、味わって、感じられる喜び。
そこには感動があり、魂の揺さぶりを実感できることがあります。


そしてある時には・・・共感すること、一体化すること、自分(エゴ)を消していくこと。


操体は自然の法則の応用貢献であり、その現象には原理・摂理があって成り立つのです。
ですから学ぶという事は、魂が喜びに震えるようなものではないでしょうか。


目的を見失わずに生きていきましょう!そこにどんな困難があったとしても乗り越えるために困難はあるはずなのですから。


話を元に戻しますが、上杉鷹山公は養子です。
始祖の上杉謙信公は、自らを毘沙門天の加護にあり続けることで有名ですが、非常に義を重んじた武将でありました。
仏教における自戒、その五戒の中の殺生しないことは戦国の世にあって守ることは無理であり、お酒に目がない(大好きだったようです)のは、やはり非常にストレスが加わっていたことも関連していたこともあるのでしょうね、ですからせめて女性との交わりを絶ち、一生独身を通し続けることを毘沙門天に誓いを立てていたそうです。



ここでブレイク!ちょっとした戦国エピソードを。
「敵に塩を送る」という有名な言葉は武田信玄の家臣であり、美男(イケメン?)で有名な高坂昌信(弾正)が川中島の戦いの後、戦場に残るおける累々とした屍を集めて、敵味方の区別なしに!手厚く葬ってあげた後で、塚を建て鎮魂したのです。


それを聞いていた上杉謙信公は深く感激して、駿河(我が故郷、静岡県)の今川義元とのイザコザにあって内陸地の武田家が塩不足に悩んでいると聞き、
「我信玄と戦うも、それは弓矢であり、魚塩にあらず」といい塩を送ったということです。


それほどまでに“義”を大事にした謙信公だからこそ、武田信玄公が病に倒れし時、息子である勝頼に「自分が死んだあとは“上杉謙信”を頼れ」と言い残したのでしょうね。


確かに、数千人数万人という死者を出すような四百数十年前の時代においてのお話ですが、
現在においても、人を思いやるという正しい道には間違いなどない筈ですしネ。


(歴史に興味がない方には?じゃないの〜と言われちゃった)


さあ!果てしなく続く旅の途中に出会う事ができた同志の皆様、一時的な快楽に溺れることなく、一緒に羽ばたきましょう!そこに操体という翼を身に着けて。


(ムゥ・・なんだかウンチクっぽいですが、ご勘弁下さい!)


岡村 郁生



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