何となく気ぜわしい師走の福岡の街でひとりぼや〜っとしている秋穂です。
「あ〜今年も一年が終わるな~。」などと悠長に構えていたら、あることに気が付きました。「あっ!そう言えば来年は年男だ・・・」お酒のめっぽう弱い寅年の私は来年0歳から数えると4回目の年男を迎えるのでした。何故か年男というだけで年が明けるのが少し待ち遠しい気がするのは私だけでしょうか。そう言えばいまから12年前の年男の前の年は現在につながる変革のとしでした。当時の私は23歳のピッチピチのヤングガイでした。21歳の頃から勤務していた地元福岡の整形外科で操体法と知り合い橋本敬三先生の論想集「生体の歪みを正す」を手掛かりに見よう見まねで操体の臨床を行っていた私が、操体法の本質を見てみたいと現実に向かい合うべく整形外科を半ば強引に辞職して(若いからこそ出来た暴挙)東京に居を移し、操体法の講習会に通い始めたのが23歳の年でした。この学んだ指導者は残念ながら今現在につながる師匠ではなく、他の先生だったのですが、その時初めて、その先生の操体法指導者として、現在の東京操体フォーラム理事長の三浦寛先生の名前を知りました。その講習は確か月2回で半年間位の期間だったように記憶しています。操体法の本質とは何かを模索していた私にとってその講習会で得た感想は、この指導者の操体法は橋本先生の操体法とは違っていた。という決して納得できるもの出来るものではありませんでした。これは何も、その指導者の方のやり方が間違っていると言っているのではありません。その指導者の方は、独自の考えに基づいて操体法を整理し独自の操法を構築されておられますし、その指導者の方や、その門下生の方々でその操体法で臨床を行われてある方も決して少なくはないでしょう。ただ私が、橋本敬三先生の著書から感じていた操体の空気感とは明らかに違っていたというだけです。最後の講習会が終わった師走の東京の街を悶々としながら歩きながら、「まだまだこの街でやらなきゃいけないことがあるに違いない。」と心に決めた当時の自分に「よっしゃ、よっしゃそれで良いよ。この先に君の探している人は必ず現れるからね〜。」と言葉をかけてあげたくなります。その時は本当にこの先のヴィジョンなんて何も無かったのですから、東京に見切りを付けて住み慣れた福岡の街に帰ってしまってても何の不思議もないような状況でした。ただあるのは田舎者特有の「東京に行けば何かがあるはず。」という何の根拠もない自信だけだったように思います。この先、現在の御縁につながる出会いが訪れるのですが、それはまだ1年以上も先のお話です。続きは3日目で・・・
今考えてみると実際にあの講習の後に「俺は操体法を極めた!」なんて勘違いして地元に帰ってしまっていたら、それこそ今の自分の環境にあるものは何も無くなっていたのですから、人間謙虚で居ることって大切なことだと改めて思えます。ちなみにその頃私が抱いていた操体像、橋本敬三像というのは、今もあまり変わらないのですが、真っ直ぐに人間と向かい合う純粋な心と、既成の概念に捕らわれない遊び心と、青空に浮かぶ雲の様な空気感を持った人物であり治療法であると、勝手に解釈しておりました。そんなこともあって当時から僕が名乗っていた屋号を、大空の様に広く自由な視点で物事が感じられるようにという意味とただの音楽好きの言葉遊びで空視堂(ソ・ラ・シ・ド)(ソラシ堂)と名付けていました。この屋号とも地味に長い付き合いです。
写真は今も昔も変わらず私の中での東京のシンボル『東京タワー』です。初めて羽田空港からのモノレールが浜松町についた時に目の前にそびえたつ東京タワーを見て、わくわくドキドキと興奮したことを今でも新鮮に覚えています。ちなみに2〜3年前に『東京タワー』という小説を書いて売れまくったリリーフランキー氏も私と同じ、福岡県のど田舎筑豊地方の出身です。
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秋穂一雄