東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

人生のパワースポット 愛と性(1)

運動生理学という分野は、性の生理学といふのだそうです。量子力学、別名筋運動主因性流動波動の原理、とも言うのだそうです。物質的に言えばガソリンオイルの循環とも言うのでしょうか。スイッチがONになって、作動、発信が可能となります。
だだ、性とは、相手(パートナー)を必要とします。一人での営みは性とは言えません。以心伝心、気ごころ、パートナーの合意があってのことです。パートナーシップです。目に見えない、意識の波動が、まづ、存在するわけです。性に対する意識の波動ですネ。
ところで、性=せっくす、なにか連想、イメージが異なるのですネ。性とせっくすとでは。性の中には品性、食性、主体性、相対性、人間性、霊性、循環性、相関性、相補性、連動性、といふように、あらゆる言葉の意味につかわれます。ですから、性=せっくすに直接結びついてこない訳であります。
いったいせっくすとは何語なのでしょうかネ。早朝からこんな愛とせっくすについてレポートしているのですから、幾何学的な、硬い、硬い話になってしまっても仕方がない。文学的な表現も必要なのですが・・・。
空間波動の営み(エネルギー)が、形となって、現れる現象が、愛と性なのでしょうか。形のない、不可視なる、命にその素材が含まれていた、自在してあったといふことなのでしょう。生命は呼吸し、動的波動の中で、生の営みをくりかえしていますから。そこにせっくす、動物の世界では交)、植物の世界では交配、という営みが存在します、人間の性がせっくすで、動物のそれは「こうび」と言いますが、なぜせっくすとは言わないのでしょうか。こうびとせっくす、なにか行為は行為なのですが、言葉のヒビキが違う気がしますネ。人間が言葉で同じ行為を使い分けていることも、面白い。
動物が発情期をむかえる季節に入ると、涙ぐましい愛のセレモニーが展開します。オスがメスの気を引くあのお勤めは、全身全霊、命がけなんですネ。人間の男どもは、動物に見習う必要がある。
動物は快楽のために交尾する訳じゃない。そこに本能的な種の繁殖という目的があるわけです。人間のせっくすは子孫を残す(産めよ、増えよ、この地に満ちよ、です)。残す為の行為がせっくすです。せっくすしなければ残せないのですから、ヒトの場合。女性では、年齢とともにあるものが止まっても、せっくすは可能な訳で、こうなると、動物のそれとは意味合いがちがってきます。互いの愛をかわす手段としてのせい欲のせっくすです。それは健全である限り、じいちゃんばあちゃんになってもある訳で・・・。子供をつくるゆえのせっくすとは遠く離れたせっくすですネ。ただ男はエレクトしなくなっては(生理的勃起状態)いたすことができない、ということです。機能的に役に立たない現象です。年齢にかかわらず、人間には精神的作用が加わってきますから、機能不全といふことも、当然おこってきます。女性が妊娠すると、性そのものも変化します。一人の女性としてのせっくす(性欲)ではないのです。胎教が10ヶ月以上続く訳で、母親に変身します。子供が生まれると、子育てに追われ、性の歓びは一時中断です。おとうちゃんとの交わりは二の次、三の次、それどころではないのです。その歓びは子供にそそがれるのです。
おとうちゃんとのせっくすは、当分おあづけです。もんもんとするせい欲は、別のコトで解消しなければなりません。それに関しては、自慰行為でおさめることも必要です。
まあ、このご時世、男が女性化している時代でもあり、このせっくすに至っては、色とりどりで、夫婦であっても子づくりなし、性欲なしの夫婦もいます。

せい欲は男女平等にある訳なんですけど、男はせっくすにしても、快感の極至(きょくち:操体用語です)で射精をむかえ、機能します。我が子もそれでなえてしまいます。女性のそれは、その快感リズムが引いては訪れ、海辺の波と同じリズムをくり返します。その器は呼吸し、その快感のリズムが収縮と弛緩をくりかえす。絶頂に入ってくると、その器は収縮力を増してくる訳で、男もその行為のなかで、放水するということになるのです。その際、お互い絶頂のリズムが一致するのが最絶頂の極至を共有するという歓びなのですが、男は待つこと、共有することが難しい、というところなのです。パートナーを置き去りにして、自分だけいっちゃうんです。ここがせっくすの難しいところです。ところでオイルの潤滑ですが、この潤滑がないと、せっくすも歓びではなく、物理的接触の最大不至(ふち)を迎えます。快感どころではなく、不快の極みです。こんなこと、やってられっかー、となります。つまり、うるおって濡れてこなければせっくすできないのです。パートナーの女性のオイルです。それが、性感帯にスイッチが入り、その器にオイルがまわって、愛液で満たされていなければ、男の欲求もせっくすの欲求も満たされない、ということです。女性は満たされていくことによって、全身は弛緩しますが、その器は収縮のリズムを高めてきます。「チツケイレン」という名称がありますネ。ケイレンの程度にもよりますが、その行為において、それが起こりますと、男のそのものは、激痛そのものなのだそうです。男にとっても女性にとっても、物理的刺激の最たる快は、せっくすの時の絶頂感なのですから、精神的にもすべてを忘れて全解放の時なのですから、そこに、何かの衝撃によって、生理的ケイレン状態が発生すれば、その収縮力は、オルガニズムのその絶頂の収縮力とは異なる訳ですから、最大苦になる訳です。

それで思い出したのは、その器を取り囲んでいる筋肉をみると、なんと8の字の筋の束、構造になっていることなんです。8の字の筋肉がケイレンすれば、どれだけの収縮力、収縮圧が加わるのか、ということです。そのオイルの潤滑も、8の字の筋肉の収縮によってその器がうるおって、その器に血液があつまり、燃え、その器もぬくもりを増してくるのです。オイルがまわるとは、その器だけが濡れてくるのではないのですネ。涙腺もゆるんできます。内耳の粘膜もしめってきます。鼻の粘膜もしめってきます。唾液もふえます。心身ともに健全ですと、乾燥していないんです。みずみずしいのです。体調リズムがくずれ、症状疾患におちいると、乾いてくるのです。乾いてくると刺激をよりうけますから、そこに不快がともないます。せっくすするという行為において、それ以上にうるおいが必要なんですネ。乾いた器には、挿入不可能です。

そうなると、男は、せっくすする前に、女性のからだがうるおうように、さまざまな作業が必要になります、用語で言えば、前戯ということです。それを省略するということは、つまり、ろくに診断もせづに、治療行為に及んでしまうというバカげたことと一緒です。目的に到着するプロセスを無視してしまっている訳ですネ。
男のそうした無知が、女性の不感症を引き起こしているのしょうネ。せっくすにおいても、そうですが、相手あってのことですから、まづ相手を優先すること、その気が上昇するまでは、相手のからだと心を満たしてあげることが必須でしょう。満たしてあげなければ、与えられないのです。これを循環の法則、と言います。調和するには、循環のプロセスが大切なのでした。

その絶頂の際、女性はさまざまな言葉を発するそうです。男はうなるだけのようだとも聞きますが、例えばイク、という言葉、イクとは死ぬ、天国に行く、遠いかなたに飛んでいく、我、自我がない、自分がいない、未知なる世界が「イク」の意味とも解釈していいのではないでしょうか。そうしてみると、男の「イク」は、一瞬の現実なんだなァと思います。
臨床でいえば、治療の後、即効的な効果があったとしても、その効果が持続しない、長持ちしない、その場限り、とでも例えて言えることじゃァないですかネェ。それは先に述べた、診断もせづ、いきなり治療行為に及んでしまう、というその結果と同じですネ。ですから、診断もせづ、治療するのは単なる慰安行為だと、治療じゃネェと公言する先生もいるのですから、それは多いに公言すべきだとおもいますよ。