東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「原始感覚は快を求めている」

今日は『原始感覚』について触れていきたい。

あるサイトで「原始感覚とはなんだ?」とあり、そこには「縄文や原始の感性を今一度、現代生活に取り込むことで自然と共に生きていく術を取り返す」と書いていた。これは言い換えれば「物が豊かになった現代から何もなかった生活に戻り、自然と共に生きる事で原始感覚を取り戻す」とも言える。
よく「現代人は原始感覚が鈍っている」というフレーズを聞いた事がある。確かにそれは当たっている。
操体では「感覚を聞きわける」を重要視しているのだが、どうしても感覚のなかに自我が関与してしまうのである。そうすることで感覚の聞き分けを自我の意識で答えてしまうので「体に聞き分ける」という言葉を使うのである。
この自我の意識が現代の豊かな生活から生じてしまうのなら、物がなかった時代の人達の原始感覚は本来人間の持つものに限りなく近かったと言える。つまり昔の人達は欲のコントロールに長けていたのではないだろうか?「現代の楽な生活から昔の快適な生活に戻す」事に原始感覚のヒントがあると思うので追っていきたい。

縄文時代には「衣・食・住」すべてにおいて自然との繋がりが生を支えた。自然の知恵と恵みを存分に活かす事で自然法則を身につけていったのだろう。そして人間の繋がりに身分の高低はなくお互いに協力して生きていたそうです。これは「欲」が現代より自由だったことで葛藤して苦しんだりしていなかったのだと思う。つまり縄文時代の人々は自然と調和することで気持ち良く生きる事が出来たのではないだろうか。
このように縄文時代の生活は自然と共にとても理に適った快適な生活を送っていたのに対し、現代人は文明の発達と共に楽な生活を送るようになった。物で溢れ、必要以上に食する事が出来るようになった事で「欲」のコントロールが難しくなった事で原始感覚も鈍ってしまったのだと思う。
もし本当に縄文時代の人達が現代人より原始感覚が優れているならば、この感覚が要求しているのは気持ちの良さではないだろうか?そして人間の悲願である「健康に生きる」ヒントは自然法則にあると言える。
「楽」と「快」を区別する事が自然法則を知っていく第一歩なのである。