東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

知識と知識・・・2

おはようございます。
今日も マイ フェイバリット ケイゾー コード である橋本敬三先生がNHKラジオ第1放送に出演した時の様子を記録した、人生読本「人間の設計」の中に収められている最後の方の文章の「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」の「知識」と「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」との違いから考えていきたいと思います。
フェイバリットといえば、AKB48のヘビーローテーションという歌の中に「いつも聴いてたFavorite Song」という箇所がありますが、私には「いつも聴いてたヘバリこそ」という風に聴こえていました。繰り返し、繰り返し聴いた歌のテープが、ヘバッテいる状態のことを指しているのかと、勝手に思い違いをしていましたが、フェイバリット ソングだったんですね。
やっぱり、聞く時は我を出さずに素直な気持ちで聞かないといけませんね。からだに感覚をききわけるということに関しては尚更ですよね。


 「原始感覚」= からだにとって「気持がいい」か「悪いか」の識別を感じわける能力。
これを踏まえての知識とそうでない知識では、身につき方と実につき方に差が出てくるのは当然であり、自分の生き方、ひいては自然環境、社会環境、人為的環境、人類の未来にも影響を及ぼしてくると感じる。
なぜなら今の繁栄は自然を自分達の欲望に向く様に操作し、どこかに負担を強いての繁栄だからだ。今の繁栄がそのまま続き、拡大すればするほど、自らの首を絞めていくことになる。この3次元の空間には限度があり時間も逆行しないからだ。これは外部の自然環境の問題だけを提起しているのではない。人間という存在は、自分自身も自然を抱えている。そのことを忘れてはならない。なぜなら、からだは人工物ではないからだ。
本来、自然環境も自分自身のからだも欲望でどうにかなるものではないし、自然あっての人間だし、人間も自然の一部なのだ。それが証拠に自分の生も死も自分の思惑でコントロールできないではないか。自然環境に対しても科学技術で制圧しようとするきらいがあるが、天と地の間でしか生きられないのが人間なのだ。
どんなに住空間を自分の都合の良いものに変えて拡大しようと、大地には限りがある。食料を確保する為の大地も必要だし、何より空気を生み出す森林も必要だ。天と地の間を満たす空気が空気でないものに変わったら即座に生きてゆけなくなる。木を切り倒すのは、機械を使えば一日でも、それまでに5年、十年、あるいは何千年もかけて生長してきているのだ。元に戻そうとすれば、それだけの時間はどうしても必要となる。その間に・・・。人間は、自然の時間、空間のかかわりからは、どうしても逃れられない。制圧なんて思いあがりも甚だしい。
みんながわかっている当然の事だけに、それを言ったら「そんな小学生レベルの知識の話をするな」と怒られそうである。大人というのはやっかいな生き物だ。根本的にはわかってはいるが、その根本的なものを隅に追いやり、科学技術で何でも解決できると考えてしまうきらいがある。ひょっとしたら、そういう大人の知識の用い方が、様々な問題の元凶になっているのではないだろうか。真理を立てようにも根本的な土台を心の隅に追いやっていては、立つものも立たなくなってしまう。
なぜ、知識の用い方を誤るのだろうか。資本主義がこれだけ浸透した為か、消費を拡大させ、お金を絶えず循環させていなければ、経済が成り立たないのが今の世の中である。当然の事はとりあえず置いておいて、常にもっともっとと欲を出さなければ、生きていけないという強迫観念に駆られるのかもしれない。
しかし「生きる」を前面に押し出す前に「生かされている」という事を忘れてはならない。赤ん坊としてこの世に産まれる前から、生かされているのが人間であり、生かされるべき環境がなければ、どんなに本人が生きようとしても、生きられないのだ。生かされるべき環境には、自然法則が自在してある。自然法則に順応していれば、生かされるべき環境は生きる環境となり、背反するほど生きづらい環境となってくる。これは、今までは個人とそのまわりだけの「報い」の問題だけで済んでいた。しかし、地球がおかしくなれば、全体の問題となってくる。
幸いにも「原始感覚」は誰にでも備わっている。自分の内にある自然は自然法則に背反すれば、「気持ち悪い」というサインをおくってくれる。「法則違反をすれば気持悪いんだから」とはよく言ったものだと思う。法違反は見つからなければ罰せられないが、法違反は自然によって常に見られている。そしてダイレクトにはね返っている。しかし、内・外の生かされしイノチの営みのバランスと環境の御蔭で、有り難く緩和される。そして「これ以上するなよ」と不快な感覚をサインとして送ってくれ、調和に向くよう諭してくれる。そして調和に向けば、今度は「気持いい」という感覚を送ってくれる。自然は「気持いい」ことをすれば良くなるように、元々は出来ているのだ。こんな有難い事はない。
この自分の中にある自然にききわけをとおすという意識を土台とする「知識」であれば、外のおおきな自然とも調和していけるのではないだろうか。誰でも出来ることなのだ。しかし、欲望や不公平感などの感情が、この自分の中の自然をオブラートのように包んでしまっていては、わからなくなる。そうならない為にも「原始感覚」は常に磨いておく必要がある。磨く秘訣は、元々は有り難く出来ており、生かされて生きているという事を意識することだと思う。


今日は最後に My Favorite な橋本先生の文章をご紹介します。
「生体の歪みを正す」の本の中の「開闢以来の医学の誤解」と題した文章の中からです。

今日、全世界マスコミに発表される人類の認識には誤解と欠陥がある。「病気」を治したいと思っている。そして、局所的な改善を高々と誇っている。われわれが病気と称しているのは生命現象のアンバランスの一症候にすぎない。人間の肉体的精神的苦痛を「病」と思い込んでいる。
 生命現象には苦痛はなくともよいように、自然は設計されているのだ。苦痛そのものはサインにすぎない。警戒警報なのである。生命現象の生活の営み方そのものに何らかのアヤマチがあることを知らせているだけのことであり、「病気」は大自然の責任ではなく、人間自身の生活に誤りのあることを教える恩恵的サインなのである。
 動物は各自、苦痛から逃れたい本能をあたえられている。動物―人間は快・不快の原始感覚に素直に順って、快の方向角度に動いて逃げきればよいのである。欲張って急いでは失敗する。ウソかホントか、まず試してみるよう、野次馬根性のない人には、この呈言は馬耳東風にすぎない。やってみてから検討批判を進めていただきたい。医者になった因果で、御同僚にお願い申し上げる次第。
 現代全科学は原始感覚そのものの「不思議」を解明しなければならない責任がある。アカデミーの中から御発言を期待したい。
            (「日本医事新報」第3053号・昭和57年10月30日)




2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催