東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「知識」の編集工学(二日目)

昨日のつづき

人間の「存在」というのは、実にさまざまな側面をもっている。能動性と受動性、誠実さと偽りの性質、真面目さと不真面目さ、勇気、臆病、自己制御、不品行、短気、利己主義、自己犠牲の覚悟、誇り、虚栄、自惚れ、勤勉、怠慢、品行方正、堕落、他にも多くのものが加わって人間の「存在」をつくりあげている。

我々の存在というのはこういった非常に劣等、劣悪な質であり、如何なる存在の変化も不可能であり、何も期待できるものがない。このような「存在」が妨害することによって真の知識を受け取ることができないのである。知識と存在の均衡は、その内の一方の単独の発達よりも重要であり、知識もしくは存在の単独の発達は、いつどんな形でも望ましいものではない。

しかし我々に特に魅力的に見えるのは、まさにこの片方だけの発達なのである。それゆえ我々の歴史上、知識が存在を凌駕したか、あるいは存在が知識を凌駕したために文明全体が死滅したという周知の事実がたくさんある。

私たちは操体の療法家であるが、「存在」を伴わずに操体の「知識」のみが発達すると、虚弱な療法家が生まれる。すなわち多くのことを知っているが何もできない療法家、つまりこの知識もあの知識も自分にとっては何の違いもないような療法家ということだ。

また知識を伴わずに存在ばかりが発達すると、愚かな療法家が生まれる。それはつまり、多くのことをすることはできるが、何をすべきか何の目的でするのかわからない療法家であり、もし何かするとしても、本人は自分を邪道に導き、重大な誤りを犯させるかもしれない主観的な感情に従って行動してしまう。ということは、自分のやりたいと思っている正反対のことを実際にはやってしまうのである。そのような虚弱な療法家や愚かな療法家もともに行き詰ってしまうのである。どちらもそれ以上の発達はできないということになる。

知識というのは一つのことであって、その理解はまた別のことである。我々はよくこれらの概念を混同し、その違いをはっきり把握していないように思う。知識がひとりでに理解を生むということはあり得ないことであり、また知識だけを増やせば理解が深くなるということもない。理解は知識と存在との関係に依存しており、理解は知識と存在の結合の結果なのである。

また知識と存在は離れすぎてはならないものであり、もしそうなれば理解は知識と存在から非常に隔たったものになってしまう。同時に、知識と存在の関係は知識を増やすだけでは変化することはなく、存在が知識と同時に生長するときに初めて変化するのである。別の言い方をすれば「理解」は存在の生長如何にかかっているということだ。

普通の考え方では、我々は理解と知識を区別しないで、深い理解は広い知識に基づくと思っている。だから「知識」と我々が呼ぶものは蓄積するが、「理解」の蓄積方法は全く知らないし、そんなことは気にもしないのである。しかし、「存在」が変わったならば「理解」も変化せずにはいられない。
 
明日につづく