昨日のつづき
知性の機能である知識があまりにも主観的な言語によって正しく理解することができないでいると、すでに述べたところだ。そしてこの言葉と言うのは社会で人間同士が各人の想いを伝達するための手段として発達したものである。が、そのためには非常に高尚な精神作用の発達が必要であり、それはどういうことかと云うと、「概念」というものが必要不可欠であったということだ。
言葉は「概念」と不離に結びついており、概念のないところに言葉は発達しないのである。たとえば、「からだ」という言葉を口にすれば、誰でも直ぐにわかってもらえるはずだ。なぜなら、言葉は一つの概念の表現だからである。だから動物と違い、人間の「思考」の働きが急速度に進歩し、拡大したものと考えられるのである。
このように「言葉」「概念」「思考」の三つの間には不可分の関連があるが、さらに、もう一つ「知識」がこの関連のつながりに加えられることになる。つまり、知識は言葉とも不可分に結びついているのである。そして知識が概念から成り立っているということは、言葉によって表現できるということだ。なのに、同じ言語がなぜ認識を欠くのかというと、言葉を使う者が言葉だけに止まっているからである。操体においても言葉の誘導が重視されるのはここにある。
言葉による正確な理解のためには厳密な言語が必要だ。その言語構造の基礎を的確な原理、すなわち相対性の原理の上に置かなければならない。つまりそれは、あらゆる概念の中に関係性を導入することで、それにより思想の立場を的確に決定することができるのである。
というのは、普通の言葉にまさしく欠けているものは相対性の表現であるからだ。この厳密な言語を習得すれば、あらゆる科学、哲学用語をもってしても普通の言語では伝達することのできない多量の知識や情報を伝達、連絡することができるようになる。
このような厳密な言語の基本的な特性は、その中のすべての観念は一つの進化の観念のまわりに集約される。つまり一つの観念の視点から、相互関係において理解されるということだ。そしてその厳密な言語というのは、「知恵」から生まれてくる。
江戸時代の賢人、石田勘平は武士道の根本経典である儒教の学問があり余るほどあるのに、素行がさっぱり駄目な人のことを「文字芸者」と呼んで軽蔑していた。いかに学問があろうとも、それが知識に止まって「知恵」になっていない者は文字を知り、理屈のうまい芸人に過ぎない、と言ったそうである。
現代においても、あまりにもそのような人が多いので誰も気がつかないで、知識のある人はとりもなおさず知恵のある人だと思い込んでいるようであるが、この「知恵」というのは人間の実践と結びついているものだ。
また中国の荀子という人は「君子」と言われるような教養の高い人物の学問は耳から入って心に定着し、それからからだ全体にゆきわたるものであり、小人と言われる教養が低くて私利私欲に支配されている人物の学問は耳から入って口から出てしまい、耳と口の間の僅か数cmの間を通過するだけで、1.5m以上のからだを持つ人間をかざることはできない」と書いている。
「知恵」と「知識」とは全く別の知性の機能である。一般的に言って我々は「知恵のある人」のことを「賢い人」といい、「知識のある人」を「学者」といって区別しているように両者は必ずしも一致はしないのである。
「知恵」は「知識」と違って本来、言葉で表現できるものではない、またしなくてもよいのである。ただ知識が知恵に変わり、知恵から知識が生ずるというふうな相互交渉は認められるが、それでも知恵は知識にあらず、知識は知恵にあらずと区分することで真実をとらえることが可能になる。
これらの知恵と言葉との間には直接の関係が無いというその根拠は、動物の本能に求めることができる。我々が動物の本能と言っているものは、これ即ち動物の知恵なのである。動物は知識の豊かな我々人間よりも上手に子どもを育てることができる。動物の本能は驚くべき巧妙さで環境に適応してゆくことができる、これこそが動物の知恵である。動物を見れば、このように言葉はなくても知恵はあり得るという証拠になっているのだ。
私たち操体の療法家が目指しているのも、受けた知識を知恵に変え、その知恵からまた知識を生じさせるという、人間独自の進化、発展に寄与することであろう。
一週間、「知識」について、「編集工学」を試みたわけであるが、いささか疑問が残らないわけでもない。 とはいうものの操体療法家にして不完全な中身を引きずりながら、操体知識とその機械的な心の所有者として、心理学というよりは力学的工学論の面から眺めることができたように思っている。