私はむかしから本が好きで
気がつくと部屋中が本だらけになっていることがあります。
今日は、そんな本好きの私が
本棚を「初期化」した時の話です。
数年前、気がつくと空間の半分くらいが
本で埋まってしまっていた状況がありました。
そんな中、読まれもしないで積まれている本に対し
なぜか無性に申し訳ない気持ちになりました。
「こんなにたくさんあっても、全然読みきれていないじゃないか。
下の方に積まれている本は読まれもしないで、重たそうだし。
それなら読みたい人のところで読んでもらった方が
よっぽどいいのではないか…」
そんな悶々とした自問自答の末、覚悟を決めて
本当に身近においておきたい本10数冊を手元に残し
それ以外の全ての本を段ボール箱に詰めて
毎年友人と年末に企画している
表現に関するイベント会場に持ち込みました。
会場の片隅に「本棚」をつくり
500冊くらいあった本を並べて
来てくださったお客さんに
「気になる本」があったら引き取っていただく。
そういう場を設けました。
遠慮なく10冊くらいもって帰る人
選びに選んで3冊くらいもって帰る人
選びに選んで1冊ももって帰らない人
遠慮してもって帰るのをためらっている人
本に興味のない人
本棚に気がつかない人
本好きの私にとって
様々な人の手に本が旅立っていく光景は
なかなか貴重な体験でした。
勿体なく、少し寂しい想いもある。
一方で、ご縁ある人の手に渡り
「本」のイノチがたしかに繋がっていく感覚。
なぜか私の心境には
チベットの「鳥葬」を連想させるものがありました。
残った本約300冊は
センスを感じた古本屋に丸ごと引き取っていただきました。
思い出のつまった本300冊は
当然「思い出」への考慮は一切なく(笑)
「積んだ時の高さ」というシンプルな尺度で
一枚の福沢諭吉先生に化けました。
そんな一部始終もまた勉強になりました。
その後、手元に限られた本しかないという
「初期化」状態の日々をしばらく味わいました。
そこで「身軽な感覚」の心地良さを体感したように思います。
これから手に取る物がすべて新鮮に思える。
自分の中に何かが入ってくる隙間が十分にあるように感じる。
手にとっても、また手放すときがくることもある。
「初期化」で感じたこういう感覚は
今でもふと思い出し、糧にしています。
「身ひとつで自分は何ができるのか」
そんなことを考えるようになり
「身ひとつで生きることの可能性を学んでいきたい!」
と思うようになったのも
思い返すと、こういった体験が影響しているように感じています。
明日に続きます。