おはようございます。
昨日、桜の美しさについて考えていて、美しさの「美」という文字は、なぜ羊という字と大という字が合わさっているのだろうかと思いました。
Wikipediaで調べてみると、
『「羊」と「大」の合成が「美」であり、「羊」と「我」の合成が「義」である。孔子の『論語』の中にも記されているが、「羊」は宗教的祭式において献物として利用された動物で、「犠牲の動物」の意味があり、そこから「羊」を要素とする合成漢字には、「犠牲」の意味が含まれている。あるいは「犠牲」の意味を持つ概念を表現するために、これらの漢字は合成され造られたとも言える。
「義」とは「我の責任の限りの犠牲」という意味があり、「善」は、「儀式の祭具に盛る限りの犠牲」という意味があるが、「美」とは「大いなる犠牲」である。この場合の犠牲とは、「自己犠牲」であり、共同体の命運などに対し、人間として行える最大限の犠牲、つまり己の命を献げて対象を高めるという含意があり、言い換えれば、人の倫理の道において、最も崇高な行いが「美」であったのである。』
と書かれている。
なんだか納得がいくような、いかないような。立派なことも書いてあると思えるが、なんだか危なっかしさや不安を感じ、心がザワザワしてくる。
漢字の成り立ちを歴史的に紐解き、客観的に簡潔にまとめれば、こう説明するしかないのかもしれない。しかし、本来の「美」とは、しっかり識別する必要があると思う。
「美」とは本来、感覚が伴うものだ。美しいと感じるから美しい。美学にしても、感覚を伴う経験をとおして、確立していくものだと思う。頭だけでつくりあげた「美」とか「美学」、他から強要された「美」とか「美学」には危うさを感じずにはいられない。感覚をききわけるという事の大切さは、こういう場面でも生きてくる。
ふと、「同期の桜」という軍歌の歌詞が思い浮かんだ。「咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ国の為」
先の戦争では、大勢の人達の尊い生命が犠牲となってしまった。その中には、この軍歌を口ずさみながら死んでいった人も沢山いただろう。神風特攻隊のように、行きだけの燃料しか入れず、「お国の為」と自己犠牲を美徳として、死んでいった若い人も沢山いたと聞く。
昭和天皇のような偉人がいなかったら、泥沼化して犠牲者はもっと多かったかもしれない。さぞ御心を痛めていらしていた事と思う。死んでいく本人も不幸だが、まわりも悲しくていたたまれないと思う。
このようなことを繰り返さないためにも、安易に自己犠牲を美学とするような風潮は、慎むべきだと思う。
つづく。
2014年4月27(日)
東京操体フォーラムが開催されます!
会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。
テーマは「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
是非お越し下さい。