「〜「みる」というのは、非常に多義にわたる内容をもつ言葉ですね。
目で見ることを日本人は非常に大切にしてきた。
そして、人生のいろんな局面を「みる」ということばで表してきた。
人間のからだも「診る」し、人間のいのちのケアの意味で「看る」し、
最後には「看とる」。「看とる」は死んでいった人を「見送る」ことです。
文字通り「見」て「送る」わけですね。
〜 生きている人は死んでいくところをしっかりと目で
見なくてはならないんですね。このように、日本人は生死にかかわることを
「みる」ということばに託していたんです〜」
「みる」という言葉はホントに多義にわたります。
立川氏によると、本来「看」は「手」に「目」がついているように
「手をかざしてよく見る」という意味なんだそうです。
そして、看護のことを「手当て」というように、
「手」と「目」は看護の基本であり、目で「看る」だけでなく、
「手をかざす」ことで、からだの隅々まで看る。
さらに、いのちの最後までを「看とる」ということ。
まぁ、ワタシらはいのちの最後まで
「看とる」ことはできないかもしれませんが、
そういう気持ちで行う「手当て」がホントの意味での
「看る」ということなのかもしれません。
また、それは「操体法は技術・テクニック」ではないということにも
繋がるのかもしれません。
ところで三浦先生は
「からだをみさせていただく」という言い方をされますが、
これはきっとからだをモノとしてみているのではなく、
いのちそのものとしてみている言葉ではないかと思います。
そして、そういった感覚は
自然と相手のからだにも伝わるんではないでしょうか。
「みさせていただく」という意識を持つことで、
からだも「みせてくれる」。
もしかしたらこれが「診る」ということの
大事なポイントなのかもしれませんし、
見えないものを見るためのヒントの一つになるのかもしれません。
中谷之美