こんにちは。
今週は友松の担当となります。
どうぞ宜しくお願い致します。
今回のテーマは「感性」ということですが、感性と聞いてまず思い浮かんだのが、音楽や絵画といった芸術と呼ばれる分野の人達でした。
そして、芸術の分野では、しばしば「天才」という表現が用いられます。音楽家のモーツァルトは、その典型ではないのでしょうか。
モーツァルトは、5歳のときから作曲し、8歳のときには交響曲を、11歳のときにはオペラを書き、その作品は800曲以上にのぼるといわれます。そして、作曲に使った楽譜には、書き間違いがほとんどなく、名曲の数々は頭の中から湧き出るように生まれたといいます。まさに天才であり、生まれつきの才能というのを感じます。
ですから、作品をつくるなかで苦悩するとか、努力するといった事とは無縁のように思われます。しかし、いくら閃きとか感性が豊かでも、感じたものがそのまま右から左に通り過ぎるだけでは創作にはつながりません。
やはり努力は必要なのではないでしょうか。からだにききわけた、静かな汗をかくような努力。
音楽プロデューサーの中野雄氏は、「モーツァルト天才の秘密」という著書の中で、このようなことを書かれています。
【モーツァルトは、群百の音楽家に比して、百倍も千倍も努力した人であった。ただ、彼はその”努力”を「つらい」とか、「もういやだ」と思わなかっただけの話である】
豊かな才能は豊かな感性からであり、その感性からの才能は努力の賜物からなのだと思います。
ちょっと意味合いが、おかしく感じられるかもしれません。それは、努力ということに関して一般的に、しんどいとか頑張るとかのイメージが強いからです。しかし、モーツァルトのした努力というのは、ちょっと違うのだと思います。
そこで努力について考える必要がありますが、努力の「努」の字の由来から考えてみる事にします。「努」は「奴」と「力」でできています。「奴」の「又」は手を表す形であり、女を手で捕まえて奴隷にする事から、「めしつかい」「やっこ」「しもべ」など総じて「従う者」を意味しているといいます。
そして「奴」に「力」(鋤)を加えて、農奴が農耕に努めることを意味する漢字が「努」となり、そこから「つとめる」とか「はげむ」という意味合いになっていったと言われています。
努力の「努」が、奴隷からきていると考えると、なにかネガティブな気持ちになってしまいます。しかし、人間社会の枠の中だけで考える必要はないのだと思います。
もっと違う観点から「従う者」の「力」というものを捉えればよいのではないでしょうか。
自然法則に従うとか、原始感覚に従うとか、からだにききわけた快に従うとか、そういう絶対的なものに従って、もたらされる力、エネルギー。
そういうふうに捉えれば、【モーツァルトは、群百の音楽家に比して、百倍も千倍も努力した人であった。ただ、彼はその”努力”を「つらい」とか、「もういやだ」と思わなかっただけの話である】という中野雄氏の文章も腑に落ちてきます。
努力は愉しみ。それによって感性も豊かになる。からだをとおした操体の学びにつうじるものがあると思います。
2016年11月23日(水)勤労感謝の日
今季のテーマは「膝と進化した操体」です