東京操体フォーラム 実行委員ブログ

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般若心経の考察 ~ 般若身経解説⑦

 般若心経の 「心」 を大般若六百巻の 「提要」 などと解してしまう仏教学者は、インドの思想について全く理解していない証拠である。 「心」 の原語である hṛdaya:フリダヤ(心)」 はまさに心臓のことであり、その心臓はからだの中で最も大切なところであるというだけでなく、その中に 「アートマン(魂)」 が宿っていると考えられてきた。 この考えはインドの聖典ウパニシャッド(紀元前七~八世紀)の中にすでに記されている。

 

「チャーンドギャ・ウパニシャッド」 の中に有名な句がある。

 

この梵の都城(肉体)の中に小さな白蓮華の家(心臓)がある。 そのさらに内部に小さな空室がある。 この中に存在するものこそ、まさに探求すべきものである

 

これは老いもせず、殺されもしない。 これは真正の梵の都城であって、その中には種々の願わしい事柄が包括されている。 これは罪垢を絶ち、老衰を脱し、死を離れ、憂いがなく、飢渇なく、実現確実な欲望と思惑とを含有するアートマン(魂)そのものである

 

 ウパニシャッドでは、心臓は洞穴とか、隠れ家と呼ばれており、奥深いとか、秘密とかいう意味合いが心臓という語に結びついていて、要点などという意味合いとはまったく無関係である。 強いていえば、秘儀とか秘訣とかいう意味合いなら無いこともないが。 ウパニシャッドの句の中にある 「白蓮華の家」 という蓮華と心臓との関連については、仏教などでも心臓のことを 「八葉の蓮華」 と言うように、インドでは今日まで通用するチャクラ(微細身)の思想である。

 

 タントラ・ヨーガでは、心臓に意識を向けて精神集中をすると、それまで下向きに垂れていた心臓の花弁(アナハータ・チャクラ)が上を向くので、その中に包まれていた 「アートマン(魂)」 の光がヴィジョンとして見えてくると言う。 「心地観経」 の中にも、心臓の中の心の本体が明月の形でヴィジョン化されることが述べられている。 インド人なら、「hṛdaya:フリダヤ(心)」 という言葉を耳にする時、すぐ思い浮かぶのはこうした連想になるものと思われる。

 

 操体の般若身経においても心の重要性として、心の使い方とからだの使い方がわかれば心がからだを動かすことができるものだと教えている。 つまり、動きの回路には目的という方向性が不可欠であり、最初に心から発信した 「意識づけ」 が必要となっている。 

 

 これまで述べてきたように般若心経の 「心」 は明呪(マントラ、真言)であり、この密教思想に準えた操体における般若身経の 「身」 においては、自然法則に基づいた身体運動の姿勢と動作を、からだのリズムとしての呼吸、すなわち脳幹呼吸と一体となって実践する甚深微妙なる 「からだで唱える明呪」 であるのだということを特筆しておきたい。

 

 その 「からだで唱える明呪」 は 「仏の舞」 であると昨日述べたが、この 「舞」 という言葉は三浦寛師が操体講義の中ではじめて口にされた表現である。 操体の動きは単なる動きや運動ではなく 「舞」 であると言われたのを今でもはっきり記憶に残っている。

 

明日からは香さんの担当です。 お愉しみに!