(続き)
今ある手持ちの知識や、手持ちの発想でつくる仮の答えは、
当然ながら不完全なものしか出来ません。
自分自身が持っていないもの。
つまり、操体の知識、操体の情報、操体の理解の、
その本質、所在に気付くことさえできれば、
それを埋めたくなり、それを手に入れたいと学びを成しうるのです。
「アナログ」といえば「触覚」。
「触覚」の情報はとても大切です。この感覚を育てるのです。
あらゆる行為において、直接触れる事はとても重要なのです。
生命現象を受けとるような感覚を大切にしないことは勿体ない。
「息」にしても、その入ってくる方向性があり、「意識」にしても、
その向かう先はあり、「目線」にも膨大な情報はあるのです。
一つ学び終えたら、その学びを忘れないことです。
いつもその問いかけに立ち戻り、自分自身で答えを仕上げようとすれば、
解消されずに残っている不明の所在に気づきます。
そこでもう一度学び直すと言う動機が得られるのです。
その答えを仕上げきることができれば、そこに達成感も得られます。
自分自身の進歩自分自身の成長に気づきます。
そのような意味でいえば、操体を学ぶ事は、ある種の「快」の体験です。
「快」の体験を繰り返していることともいえます。
このように「操体」を学問として維持するモチベーションの源質として、
達成感のある「快」は、継続する力として働いてくれるのです。
(続く)