臨床や生活の場で、わたしたちを生かしてくれている法則性を感じとっていくこと。
その姿勢は健康維持増進そのものである、と強く感じています。
昨日は師や同志たちと学ぶ機会があり、先ほど久慈に戻ってきました。
帰りのバスの中で改めて思ったことは、操体法は感覚的なことを大切にしているけれど、その感覚とは「からだ」がききわけている感覚、ということです。
「自分」の感覚ではなく、「からだ」がききわけている感覚を基準にしているから、臨床や生活の場はそれぞれ違っていても、そこで感じとっていることはちゃんとつながっているし、重なっていると共感できるんです。
これは「環境」の捉え方にもつながってくることです。
前回のブログで、「からだがききわけている環境」という捉え方になってくると、環境がよりシンプルに感じられるようになってくるのでは、ということを書きました。
それは、「からだ」がききわけている感覚が基準になると、今まで分けて考えていたことが、分けて考えなくてもよくなってくるという実感によるものでした。
「からだ」がほんとうに要求していることはなんだろう?
この問いを持ち続けていれば、それぞれの場においても、向き合う環境はおのずと感じられてくるし、それは自分にとっても大切なこととして受け取れるようになってくる。
その環境とからだをつないでくれているメッセージの一つに呼吸があるのですが、続きは明日にしようと思います。