息、食、動、想の営みが、自分の要求を満たす営みとしてだけではなく、からだの要求を満たす営みでもあるように、からだに感覚をききわける。
「食」の営み一つとっても、ほんとうにからだは食べることを要求しているのか、食べることがからだの悦ぶ「快」につながっているのか、その都度からだに確認してみる。
お腹が空いたということも、毎回同じではなく、ちょっとずつ違っていて、からだと共に味わっていたい空腹感もある。
「ちょっと」でずいぶん変わるんです。
「ちょっと感じられる」とか、「ちょっと気づく」って、とても大切なことだと最近感じています。
その「ちょっと」の範囲がちょっとずつ広がっていって、からだの内側の変化だけでなく、からだの外側の変化にまで意識が向くようになってくると、「からだがききわけている」ということも、すっと腑に落ちてくる。
そうすると、「からだにききわける」というよりも、「からだがききわけている」ことに委ねている自分に気づくことが多くなってくる。
このブログでも、「重なる」とか「いただく」とか、「うつわになる」という言葉で表現するようになったのは、「ちょっと」の範囲がちょっとずつ広がっていくことで、自分たちに向けて発信してくれている「からだ」や「空間」のメッセージに気づきやすくなってくるから、ということもあると思います。
そういった変化と共に、環境の捉え方も変わってきました。
これまでも、息、食、動、想の四つの営みと環境との関わりを学んできましたが、環境に関しては今一つ掴み切れておらず、漠然とした理解になっているところもありました。
けれども、「からだがききわけている」ということに意識が向くようになってくると、よりシンプルに「からだがききわけている環境」と捉えられるのではないか、と思うようになってきました。
からだがききわけている環境において、
どのような立ち方になっていけばいいのか、
どのような呼吸になっていけばいいのか、
どのようなうごきになっていけばいいのか、
どのようなつくりになっていけばいいのか、
どのような感覚をうけとっていけばいいのか、
どのような意識になっていけばいいのか、
どのような言葉を発していけばいいのか。
からだと共に感じとっていくことが、環境を理解することにつながり、それは、空間の変化を感じとっていくことでもあり、生かされているという実感を積み重ねていくことでもあると思います。
空間と想念は深くつながり、感謝はそこから生まれてくる。
やっぱり「ちょっと」って大事なんです。
2024年春季東京操体フォーラム開催致します。