球心機動
佐伯惟弘
それにしても、大胆な試みをしてしまったものです。
俳句の世界を全く知らない者が、俳人・松根東洋城と幼い時に交流があったという理由だけで俳句の本質を語る。
(上は、佐伯一家。東洋城先生に買って戴いた赤胴鈴之助を着る私。東洋城先生の写真と、私宛の手紙)
これは、所詮無理があります。ですから、特に俳句をなさっている方は、あまりムキになってお読みにならないで下さい。
何故、私が俳人・松根東洋城の球心機動を書くようになったかというと、遠い存在であった祖父・佐伯巨星塔が、生涯追求したのが、球心機動。
孫として、祖父の歩んだ道を訪ねてみたい、少しでも祖父に近づきたいという思いがあったからです。
とはいえ、何とも、、、、ドンキホーテ、、、
それでは、少々無謀な旅を始めたいと思います。
東洋城は、
麦蒔(むぎまく)やたばね上げたる桑の枝
五月雨(さみだれ)や大河を前に家二軒
雲雀(ひばり)より上にやすらう峠かな
この三句を解説しています(漢詩調の文章なので、口語文に出来るだけ訳してみます)。
最初の二句は、構図が実にはっきりしており、第三句のみが、漠然としています。
そして、雲雀より上・やすらむ・峠に至っては第一に、そのやすらむのは自分だか他人だかハッキリせず、やすらう峠と続くことで、やすらう人の動作と地形の峠との相関がピンぼけになっています。
雲雀に関していうと、雲雀より上という表現で、雲雀から脱離し雲雀の外を意味することになっています。
実際には、ある人間が確かに休んでおり、その投げ出した足の先よりも低い空中に雲雀は飛ぶ。
その人の位置は、山の峠の高い所に違いありません。
しかし、一句の表現だけでは、非常に漠然としています。強いていえば、高く飛ぶ雲雀より上の空の高い所ということがこの句の究極になります。
つまり、大空の一点にその人の存在地点があり、その空間の一点に身を置くことになります。
その空間の一点に身を置くということはどうなのかというと、「前後上下四方八方を自己の環境にすること、即ち立体の中、その芯に自己を置くこと」であります。
これは、外向きには、全宇宙。
内向きには、全身全霊。つまり、外にも内にも浸透し、融通無碍(ゆうづうむげ)なるあらゆる広がりを持つことになります。
そして、夏目漱石の言葉・則天去私に始まり、八面玲瓏(はちめんれいろう)=“完全に透き通った状態”に到ることを意味します。
ところが、第一句は、平面的な描写の小品で、壁に掛けられた画面と額縁を同時に鑑賞するようなもの。
第二句は、同じ平面でも画面の輪郭は額縁を超え外にまで氾濫しています。
第三句にいたっては、平面ではなく立体で、しかも、作者及び読者が、立体の中心に立ち、その中心が立体そのものを構成し、保持しそれに充実するかの状況であります。
また更に、その句の成立過程に大いなる違いを見いだすことが出来ます。
第一句は、子供が一度見ては一点を、又見ては一線をと克明に筆を運ぶ絵画制作のようであり、第二句は、同じ絵画でも才気あふれる画家が、陶酔した状態で筆を走らせその芸術欲を満足させています。
しかし、第三句に到っては、もう絵画ではなく、コツコツと功を積み、力を事に当たって極め、至誠を尽くし天に祈願した修行精進そのものであります。
この第一句・子規、第二句・蕪村、第三句・芭蕉。
松根東洋城は、このように、三句を比較し松尾芭蕉の俳句に対する姿勢の素晴らしさを解いています。
この芭蕉の姿勢を東洋城は“球心機動”という造語で説明しています。
“球心”とは、文字通り球の中心という意味です。
そして、一つの点です。
点とは、位置があって形のないものです。
位置があって形がないという事が俳諧の生命の宿る所なのです。
(中略)
外から見る事は出来なくても確かに球の中心はある。
考えたのでは分からない、ただ頭の中で感じるだけの問題です。これが、“球心”です。
“機動”とは、“機に臨み変に応じて変動自在、変通自在であるという意味です”。
東洋城は俳句の本質は、球心と機動を兼ね備えたもの、つまり、
“機に臨み変に応じて変動自在に生命の宿る場所(東洋城は、これを−魂の位置−とも言っています)を感じとること。”
としたのです。
そして、東洋城が若いときに作った句は、無意識ながらも一句一句が、球心機動へ行き出来た句である事を後になって発見したと言っています。
また、芭蕉の句は全て球心機動であるが、読み手の態度も球心機動でなければ、出来たものを受け取ることは出来ないとも諭しています。
“無分別”とは意識的に科学的に分かるのではなく、心の置き方を“球心機動”にすえること、つまり、心を宙に浮かし無意識に感じることを説いたのです。
(ここまで読んで、操体臨床を行っている同志には、ピーンとくるところが多々あると思います。しかし、今回は、敢えてそれらのことには触れないで進みたいと思います。)
東洋城は、球心機動とは別に俳諧修行をする上での心構えを、
“志は絶大に大きく、気は猛く強く、情は心の中で深く豊かに溢れこぼれる程持ちはするが、表現には極めて微(かす)か”
と述べています。
また、この教えは俳諧に縁のない人々も、日常、飯を食うこと、子供を育てること、炊事をすること、外で働くこと、そうした日常の生活において人は、
“志は大、気は豪、情は微か”
で処していけば大抵の事は間違いないとしています。
ここで、東洋城の教えを実践していった祖父・巨星塔との生活を思い起こしてみようと思います。
着物姿で正座し、書斎で俳句と書をたしなんでいる祖父。
そこへ、小学生の私が帰ってきます。
「ただいま、じいちゃん。あんなあ、ボク、、、、きょう学校でおこられたんよ。」
「おおう、そうか、なにしたんぞ」
「また、忘れもんしてしもうたんよ。」
「おおう、そうか。」
「ほじゃけん、また、廊下に立たされたんよ。」
「おおう、そうか。」
だいたい、このような会話だったと思います。私が一方的に話かけ、祖父が聞くだけというパターンでした。
しかし、ただそれだけで、私の心は落ち着き、安心するのでした。
そんな祖父との会話で、強烈に脳裏に焼き付いている言葉がいくらか在ります。
「ひろむ、日本という国は、素晴らしいんぞ。日の丸の旗は太陽なんぞ。他の国の人がうらやむ位の旗じゃ。」
「こんな田舎じゃからこそ、俳句という文化が必要なんぞ。俳句はのう、世界で一番短い詩なんぞ。」
「弘という漢字は、“ものごとをひろめる”という意味があるんぞ。」
これらの言葉には“志は大、気は豪、情は微か”という教えがしっかりと入っています。
敗戦国として、国全体が自信を無くしている時、地域の人々に、壮大なスケールの世界一短い詩を教えることを使命と感じた祖父。
人々に勇気を与え、自信を取り戻すという仕事を祖父は地道にやり通し、その生き様を私に示してくれました。
そして、“機に臨み変に応じて変動自在に魂の位置を感じとる”という球心機動そのものを目の当たりにしたのは、祖父が亡くなる前日でした。
意識が無くなり、昏々と眠っている祖父の周りを、親族一同が見守っていました。
そして、私が祖父の右足をゆっくりと揉んでいる時のこと。
突然、祖父の上体が、静かに浮かび上がるように起きあがってきたのです。
その場にいた全ての人々は、ありえないこの事実に目を疑い、この世とも、あの世ともいえない世界に引きずり込まれました。
祖父は右手をゆっくりと顔の横までもっていき、時計回りに一人一人と目を合わせ、最後の挨拶をしていったのです。
誰かの「おじいちゃん、おじいちゃん、、、、」とひきつるような言葉。
そして、「おじいちゃん、ありがとうございます。」
後は、嗚咽の声。
私は、吸い込まれるように、だだ祖父を見入るだけでした。
挨拶を終えた祖父は、静かに床に付き、満足した寝顔。
私は、堰を切ったように泣きだし、嗚咽の波が部屋中を駆けめぐり、天空へと舞い上がります。
それから祖父が動くことはありませんでした。
祖父の魂が高天原(神道におけるあの世)に行く状態になったとき、祖父の肉体を通して無意識の動き誘い操ったのだと思います。
もうこれは、意識のレベルではありません。日常における“行”の集大成が、あの祖父の“最後の挨拶”だったのです。
そして、それこそが求心機動だったのです。
“じいちゃん、ほんとうにありがとうございました。”
(完)
明日からは、操体庵ゆかいや物語をスタートします。
では また明日!
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