東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

未生以前

橋本先生は若い頃、生前の身分を知りたい、また、何とか罪を犯さぬような救いを受けることはできないものか、申訳ないが神を呪って死んでも救われる道はないものかを思い悩んだ時期があるそうです。
そして5年間思い悩んだ末、「自分は生まれぬ先から、聖別され祝福された神と同格の永遠の生命そのものであるとの自覚を得ました。
この時期の体験が、操体の想の部分の中心となる、「救い」と「報い」の元になったようです。

「救い」と「報い」の区別というのは、わかりやすい言葉で言い表すなら、「救い」は絶対、「報い」は相対、ということである。「救い」とは絶対の無罪宣言であり、神性相続権であり、何ものも覆すことのできない久遠の事実である。
(生体の歪を正す 〜橋本敬三論想集〜 P.376)


芭蕉の句に、

古池や
蛙とび込む
水の音

という有名なものがあります。
これは、単に自然の風景をうたったものではなく、父母未生以前本来の面目の問いに出した答えであったと読んだことがあります。
芭蕉が全国を旅する以前、師である仏頂和尚に、問われます。

「今日のこと什麼生」
「雨過ぎて青苔湿ふ」
「青苔いまだ生ぜざるときの仏法いかん」
「蛙とび込む水の音」

万物創造以前の宇宙風景、時間なき時間はいつであるかの芭蕉の答えです。
こういった答えは、意識的に頭で考えていてはなかなかでてきませんね。

「偉大な行為はみな、人間が意識的な自己中心的な努力を捨て去って、『無意識』の働きに任せるとき成就せられる。神秘的な力が何人の内にも隠されている。それを目覚ましてその想像力を現すのが参禅の目的である。」(鈴木大拙