おはようございます。
昨日ブログを書いていて、書き進むまま文中に「目から鱗が落ちる」と自分で書いていましたが、なにかこの言葉が離れなくなっていました。
目から鱗が落ちるとは、何かがきっかけとなり、急に視野が開けて、物事の実態が理解できるようになることのたとえ。
由来を辿れば、キリスト教の迫害者サウロが使徒パウロに変わる回心の場面を書いた「新約聖書」使徒行伝・第9章「The scales fall from ones eyes」という言葉に基づいており、本来は、誤りを悟り、迷いから覚める意味で使われていたという。
サウロ、パウロに関しては、橋本敬三先生の書き記した論文の中に出てきたものがあると思い出し、著書を捲っていると『心の調和-「救い」と「報い」』という項目に辿り着いた。
もう何回読み返したか、それでも読み返してみると操体創始者の思想、哲学、生命観の凄さを、改めて思い知らされる。
そして、現代訳の聖書にないサウロとパウロの決定的な違い、というものが見えてくる。
サウロとパウロは、もちろん同一人物だが、キリスト教徒を迫害しサウロを名乗っていた頃のパウロにはなかったもの、それは「救い」。
橋本敬三先生は、こう書いている。
~「救い」は絶対、「報い」は相対だ、という事である。「救い」とは絶対の無罪宣言であり、神性相続権であり、何ものも覆すことができない久遠の事実である。~
つまり、「救い」とは、自分自身はイエスと同じように神と同格の神の子であり、他の人も同じで、皆が神性相続権を持っているという事。そして、これは絶対的な事実だという事。
しかし、サウロを名乗っていたころのパウロには、この「救い」と「報い」の違いが分からなかった。
神と人間は全く別物であり、人間は罪を犯すものであり、その罪を償うために罰を受けたり、神に赦免を請わなくてはならない、と認識していたと思われる。
だから、異教徒であったサウロは、自分の信じる教えと違うことをする人は罪人であり、罰を受けその「報い」を受けなければならないと考え、迫害に力を入れ、それが正しいと思っていたのではないだろうか。
この世は確かに「報い」の成立する世界だ。善い事をすれば善い報いがあり、悪い事をすれば悪い報いが待っている。
では、その善い、悪いとは?
少なくともサウロのように、自分の信仰するものは善く、その信仰に反する事をする人は悪、と決めつけられるものではないだろう。
この世は、時間、空間のかかわりのなかで、いくつもの事象が折り重なっている。頭で考えると、何が善い事で、何が悪い事なのか、どう生きれば善いのか、考えれば考える程分からなくなり、迷いに陥る。
しかし、感覚には迷いがない。気持ちがいいか、悪いかは、ききわければわかる。だから、有難い。
人類に、この原始感覚が元々備わっているという事は、神の子である証なのだ。
神さまは、その子供である人類に、人それぞれが個性を持って構わない、そして個性を持ったそれぞれが、それぞれ気持ちよく、快適に、満足して生き、そして、違う個性も尊重し合い共存共栄が成る世、となる事をはじめから望んでおられた。
その為に、気持ちよさを求めて生きればいいのだよ、と原始感覚を備えさせたのだと思う。
元々、「救い」の成立しているイノチなのだという事。
大人になる程、「報い」の相対世界での価値観に囚われやすくなる。その価値観からつくられてきた常識というものは、絶対的ではない。
今、私たちが生きている「報い」の相対世界での常識は、絶対的「救い」の生命観からみてどうなのか、という感覚をとおした目を持つことも必要だと思います。