東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「新たな原稿」

橋本先生の原稿がまた新たに見つかった。
その原文のなかに、「人生の極至」や「真正の快適感」などと目新しい言葉が飛び込んでくる。師の言葉の豊かさや(と)表現に感服してしまう。
人生の極至といふ問いかけに師は、調和という二字を書き添え、こう述べる。「調和は波動の共鳴である。自らの波動を、天成の波動に近づけること」しめくくっておられる。これが、人として生きてゆく生き方を示しておられる。また「真正の快適感を体得する」とはいかなることなのか、臨床において、この快適感とは、現象がききわけてくる快があるのではないかと僕は思う。ならば、今ある快から、さらなる快へと次元を越えていくべきことが、真正の快を会得することなのか、それは全てによしとしてこの世を創造した天成の意志を知ることこそが真正なる快適感を体得する。この世に生を受けしこと、それは絶対なる現象以前の身分であり、救いである。この悟りをえることは人生の至福を得たものである。これこそが真正の快適感を体得することなのか。


「一枚の写真」
私が東京で開業し、数年後、橋本先生からA3の封筒が送られてきた。その封筒には先生ご自身の特大の写真と、それに一枚の便箋が添えられていた。それには「なにか思い余ることがあったらこの写真に語りかけてくれ、君の最高の幸せを祈っている儂の写真だと思って語りかけて下さい」と書き添えてあった。その写真は額に納め、今も自宅に飾られ、私と私の家族を見守ってくれている。


「要妙パート2、やっとゲラ刷りがでる」
いつかは誰かが書きのこしておかねばならないことがある。誰れが書いてくれるだろうと待望し続けるのだが、音沙汰がない。では取り敢えず今は自分しかいないなと、身をけづり出版すればツベコベと批判、批評する。そんなに言いたいことがあるなら、自分が書けばいいだろうと思ってしまうのだが、しかし誰かが・・・というその内容は実に尻込みするほど大変なものだから、誰も手を出そうとはしない。誰れかがやってくれるだろうと同じ事を他人も考える。今度の執筆は皮膚という(領域から)アングルで操体の臨床に切り込んでいくことになる訳だが、この皮膚に関しては、今まで本にできるほどの情報量を持ち得なかった。自分の言葉で語れるほど皮膚のことがわかっていなかった。皮膚と出会い、すっかり皮膚のとりこになって夢中で恋をして本気で惚れて手応えを得て、十数年プロポーズし続けるが、未だ一冊の本にも納めきれていない。診断としても臨床としてもこれほどエキサイティングなアングルはないのだが、しかし、臨床行為そのものが、皮膚に接触しているだけのシンプルなものだけに、本としての体裁を満たすことができない。こんなシンプルな問いかけ一つに百何ページもの空白を埋め尽くさなければならぬのだ。 人間が人間を創造できたであろうか。人間はその皮膚を創造することができたであろうか。神が人間を創造した時、このからだに皮膚という最高の贈り物を与えて下さった。その皮膚へ臨床上重要なをとおしてみても、皮膚はただ者じゃない。命そのものだ。その命にといかけていくことは、臨床の深き意味がある。
何事も面倒臭いで放り出したら、それまでの話しなのだよ。そんなこと言ってたら生きて行くのも面倒臭くなる。どうでもいいような人生じゃないんだし、皮膚のことだってどうでもいいと放っておけない存在だから、この世に残しておきたい。
どうでもいいようなことのために、やさしく、やわらかく、からだを包み込んでくれている訳じゃないんだ。皮膚に守られて、生かされているこの生なのだから、皮膚への感謝として、どうしてもこの一冊、この世に残しておきたい。