東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

コレクション 続き

 数多くのコレクションは、開業した当初からコツコツたのしみに収集してきた思い出深い作品である。収集した作品の中に、イカールの「ラブレター」という二点の作品がある。20数年前にアンティークのお店で偶然目にしたもの、これはエッチングによるもので、あわい色彩が実に美しい。納められている額そのものも、その時代のアンティークのもので、なかなか味わいがあっていい。イカールの作品集の中にこの2点が紹介されており、一度はその実物この目で確かめてみたいと思い続けていた。ある日青山に出かけ、西洋骨董のお店をのぞいてみると、この2点の作品が一緒に飾られていたのである。その店のオーナーにいつから飾っているのかと聞くと、今朝だという。まさに奇跡というのか、こんなことってあるのかと我が目を疑った。私はすっかり興奮してのぼせてしまった。骨董は瞬間瞬時の人と作品とのめぐりあわせとご縁の世界なのだ。この出会いが、収集家にとってたまらない魅力なのだ。その時の胸おどる感動は今でも忘れられない。探し求めていたイカールのこの二点の作品が二枚とも、東京の青山のこの店に置いてあったとは、東京とはすごい所なんだなあと改めて思うのだ。
 私のところには宗教的絵画を数多く残した画家の一人、ルオーのエッチングがある。これは額の大きさが30号ほどのもので、黒の色彩で描かれ、戦火で死んでいく我が子を抱いている母親の姿が描かれている。
 また、マリアがイエスを抱いている50号ほどのモザイク様の石画、これはヒスイと三種類ほどの小さな石をはめこんで作ったものである。そしてフランスの画家、ラールが描いた油絵が三点、圧巻は300号余りの油絵である。これはフランスのある画家自身が東洋思想にあこがれ、神を東洋人の形ある姿に似せ、我が子イエスを抱いている姿が描かれている。待合室の右手奥には、大小何体かの仏像が置いてあり、その仏像のまわりに、水晶玉が五、六個並べられている。水晶玉は直径が20センチの特大のもので、その透明度が99.8%の純度をもっている。玉色も透明のもの、グリーン、白色、ピンクとある。その右脇に50センチほどの黒柿(くろがき)の幹が置いてある。柿の木に、この黒柿があることを知ったのは、ごく最近のこと。この黒柿の特徴は幹の中が黒いことと、1000本に一本位しか生息してないということなんだ。最初目にした時、幹の中が黒く、ペンキでも塗っているいるのかと思ったものだが、そうじゃないのだ。樹歴とともに黒づんでくるのだそうだ。これらのコレクションのなかで、私が骨抜き状態に魅了されてしまったのが、アールデコアールヌーボー時代のガラス工芸である。ガレーと並ぶ天才天才ガラス職人だったルネ・ラリックのアートであった。ガラスとは思えぬその巧妙繊細なる技法は、当時の上流社会層にまづ受け入れられ、更に一般大衆にも絶大なる支持を得る。圧巻は、当時の車のボンネットの取り付けられている各種のキャブレーターである。風になびく後ろ髪の「女神」ひときわ目を引くガラス工芸の一つである。夜の走行中は車燈も黄金色に輝くのである。私はその女神を手にいれる。ある美術商が持ち込んできたのだが、この女神のガラスにはオチがついた。話せば長くなるようなエピソードがある。機会があったら話すこととして・・・・・。

 僕はそんな訳で数々の一流、本物(人、物)をこの目で見てきたので、私の「目利き」は確実に実習されている。それは臨床にも通じている。先日畠山氏の紹介で、松岡正剛氏関連のISIS編集学校の大師範、川崎さんを診せていただいた(畠山氏はISIS編集学校の師範代経験者)。昨日デーブ川崎氏のmixiの日記「操体受療日記」が送られてきたのだが、その中に「芸能の世界には下手がウツル」という言葉があって、芸を磨くには本物から習う、本物をお手本にして習ふのが一番」という書き込みがあった。それはまさに納得。そうなんだ。
 僕はある種、臨床も芸、アートじゃないかと思っているフシがある。私の臨床観の世界にあるのだ。それを私は「そんな高貴な遊び心」と名付けている。どんな世界に身をおく、超一流人、名人達人は必ず、この高貴な遊び心を身につけてしまっている。そう、身につけてしまっている人達なのだ。僕も少しづづ、少しづつはわかる。それが超一流人の芸、アートなんだね、この遊び心とは、事象物象「神象・仏象」の理に適う霊性的な遊び心(つまり、神技ごときのもの)である。勿論、その素材なるものの命をとことん知り尽くし、その素材に生といふイノチを与えて行く努力をおしまない。寝ても覚めても問いかけている、まさに自分の命を越えた、命超えをなさっているはずである。一流のその作品は、芸術家、その主たる霊的な命超えなる美でもある。そうでないとこの高貴なるというのか、豊かなる遊び心は生まれてこないのだ。ここにも我が師、橋本敬三の名訓、「ヤジ馬の心」がダブってくる。それもただのヤジ馬じゃダメだよ、というズルいヤジ馬になるのが本物のヤジ馬だとー橋本はそこで、カラスを引き合いに出す。あんなちっぽけな図体で、脳みそだってほんの申し訳程度のもんだろうけど、あの悪ガキ以上の悪知恵は見上げたものである。
 そう云えば、ノミのジャンプも師の原稿にあったなァー。それはともかく、「ズルいヤジ馬ごころ」が大切だと。俺にはデキネェなどと、投げてはいけない。ともかく、デキの悪い頭で考えるんじゃなく、「のるかそるか」つまり、「やってみるか、みねぇか」、それだけのことなんだよ。「やってみないでつべこべ言うなッてんの」ここんところのこのセリフ橋本先生のとっておきの名セリフだったのだよ。
 やるか、やらねェか、やってみての話だ。そこから高貴な遊び心が育ってくるのだ。
ところで、昨日、先週島根の坂本龍馬のあのブログ、さっそく畠山氏が文章にとじて届けてくれる。ドッサリある。いったいこれは何だと聞くと、福田さんのブログだと言う。一年分かと聞くと、先週のブログだけだと言うのである。一体何ページあるんだ。「50枚以上です」
エッ50枚、一週間で・・・・。一日3000字は打ち込んでいるな。あの華奢な体力で、高見山のような・・???いったいなにを書き込んでいるのか。龍馬の世界はハッピーだな、これも65年つきあっている奥さんといつもできたてアツアツ、ついでのおまけのホッカホカのたい焼き君なのだな。
 ともかく、とにかく一息に読ませていただいた。すごいものだねー。なんでこんな書き込みができるのか、人は好きなことならそのことに集中できる。興味があるから集中するのだ。その上、興味のあることには全くの無防備、つまり自分そのものでいられるってコトなのだ。あのガキの頃の、自分のオモチャ、一心不乱で遊びに興じている、あの頃の自分の姿、アレがアレなんだ。芸(ゲイじゃないぞ)アートの登竜門なのだよ。まさに遊び心がソレ、みんなもっていたもの、ただ、いつの頃かすっかり忘れてしまっているだけなのだ。龍馬、みんなもそうだろう。しかし、50ページとはな。ところで龍馬、三茶にたい焼き屋さんがもう一件増えた。今度上京したら、たい焼き100枚ご馳走するよ。奥さまにも土産に、と思ったけど、冷えたタイ焼き君は口にしたくもないよなァ、何か考えておく。今日はこれでおしまい!