お久しぶりです。東京操体フォーラムの畠山裕美です。今週一週間よろしくお願い致します。
4月25日(日)2010年春季東京操体フォーラム分科会が開催されます。今までは運営企画を私が進めていたのですが、分科会は若手にそろそろ勉強してもらおうと、今回は「まかせるから相談と報告はしてね」というように運営しています。ちょっとひやひやするところもありますが、電信柱の陰からそっと見守っています(笑)
まだまだ参加申し込み受付中です。
今回は鍼灸学校の学生さんも結構いらっしゃるようです。また、鍼灸の学校で「操体法」のクラスがあるところもあるそうですが、いかんせん、そういうところで紹介されているのは「楽な方に動かして瞬間急速脱力」という、古典的第一分析なのです。また、「楽」と「快」の区別をつけておらず、言葉だけは第二分析の「きもちよさ」で、実際は第一分析をやっているという状況が非常に多いのが現状です。
これはどんな結果を生むかといえば、「きもちよさってよくわかんない」「操体ってよくわかんない」「結果が出ない」という結果です。操体のプロとしてそれは困る。
今回私は「操体法について」(仮)というテーマで講義しますが、この辺りを話そうかなと思っています。
「操体法とは」という問いに「天然自然の法則である」と言っても、あまりにも枠が広すぎてよくわからないことがあります。操体は森羅万象に通ずるので、「天然自然の法則」とか「命の法則」とも言えるのですが、こういう言葉は間違ってはいないのですが、解釈が難しい場合があります。解釈が難しいというのは親切な言い方で、もっと意地悪な言い方をすれば『曖昧でも、もっともらしく聞こえる』ということです。それを避けるためにも、操体の実際をわかりやすく紹介したいと思っています。
三軒茶屋ターミナルビル前の桜の木。
さて本題。語調を「である」に変えましょう。
橋本先生は単なるヤジウマになれと言ったのではない。「ずるいヤジウマになれ」とか「オレがヤジウマの大親分だな」と言われたそうだ。この「ヤジウマ」というのは結構私達が操体の学びの中でよく聞く言葉でもある。今日はこの「やじうま」という言葉について考えてみたい。たまに『橋本先生がやじうましろと言ったから、色々な事に首をつっこんでみてもいい』という声を聞く。また『効きそうなことだったら何でもやる』というスタンスの方もおられる。それはそれで構わないと思うのだが、「ずるいヤジウマ」には意味があるのではないかと思う。何せ単なる「やじうま」ではなく、「ずるいヤジウマ」なのだ。
中谷実行委員が3月24日のブログで紹介していたが「万病」に書かれている言葉を再度引用しよう。
「・・・私の弟子に対しては有名な人のところに行ってぬすんでこいといっています。原理がわかっているからすぐわかる。ハハー、こんなうまいことやっているなという具合にわかります」
なお、やじうまというのは「自分に関係のないことに、興味本位で騒ぎ立て、見物すること。また、人のしりについて騒ぎ回ること。また、その人々。」という意味だが、橋本先生は決して悪い意味で使っておられるわけではない。中谷実行委員は『つまり、全ては自然法則の中にあるのだから、一つの方法にこだわらずに、いろいろとヤジウマして学んでこいということなのでしょう。』と書いている。ここでそれに少し付け加えてみる。
橋本先生が、弟子に盗んでこい、と言ったのは『原理がわかっているからわかる。原理が分かっていなければわからない』ということではないか。むやみやたらに首をつっこんで盗もうと思っても原理が分かっていなければ盗めないということだ。なので、原理原則をしっかり学べと言われたのではないか?ずるいヤジウマというのは、原理原則が分かっているのだ。
そして余り知られていないことかもしれないが、橋本敬三先生が臨床で操体だけをされていたのは、80歳からなのだ。それまで色々なことを試し、その結果やはり「操体に間違いない」と確信され、操体一本に絞られたのである。橋本先生が60年近く医師として過ごされ、その歳月の中で80歳にして操体一本に絞られたというのは、長年のヤジウマの積み重ねの結果である。それを三浦寛先生が受け継ぎ、深めている。今現在私が知っている操体は『楽なほうに動かして瞬間急速脱力』ではない。『快適感覚をききわけ、味わう』という操体なのである。
私が今やろうとしているのは、操体の軸で、操体の目線でみたやじうまだ。操体の軸で、操体を深めるヤジウマだ。
あ、結局これが「ずるいヤジウマ」か。
畠山裕美