東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

ドラッグと瞑想

バトン受け取りました。今週は日下が担当します。
近頃、世間をお騒がせしている旬な話題『覚せい剤』について、触れてみたい。

ヨーガはアシッド(LSD)を使っている。タントラも使っている。インドではLSDを瞑想の一助として用いているヨーガやタントラのアシュラム(道場)は確かに存在する。実を言うと、化学薬品を使っても、さとり(覚醒)は可能である。メスカリン、LSD、マリファナ(大麻)を通して可能になる。なぜなら化学変化を通じて、心が一瞥できるほどに拡張するからである。人間の身体は結局のところ化学的に構成されている。身心は化学的な単一体であるからこそ化学作用を通してでも一瞥できるのだ。
しかし、LSDを使用するには、まず、からだの準備を整えるという、からだの浄化のための長い過程が必要になる。からだが完全に浄化されなければならない。からだが完全に浄化されることによって自分のからだの完全なるマスターとなれる。自分のからだの完全なるマスターとなれば、LSDの化学作用でもからだを支配することはできない。
ヨーガやタントラはLSDを認めてはいるが、非常に特殊な場合に限られている。この特殊な場合とは科学的にからだが浄化されて、化学質でさえ制御できるようになるということである。こういった行法を納めているヨーギー(行者)は、たとえコブラ(毒蛇)に噛まれても、血液がその毒と混ざらないように調整することができる。その毒は血液とまったく混合せずにからだの中を通過して、尿になって排出される。このようなからだの制御力ができればLSDを使うことが許される。
からだの化学質を制御できるようになっていないと、実に危険なものになる。タバコやアルコールでさえ放棄するのが難しい。ましてLSDを使うとなると、もっと放棄するのが難しくなるのは当然のこと。
LSDのトリップに入ると、同時に自制心を失ってしまう。化学物質が制御権をにぎってしまって、自分の居場所がなくなってしまう。もう自分のからだの主人ではなくなるということだ。ひとたび、その座を失うと、ふたたび、その座を得るのは至難の業である。からだはLSDを強く求める。その渇望は何ものにも優先する。その渇望はからだの一部となり、LSDはからだの細胞にまで浸透してゆく。体内の化学構造に変化が生じて全身の細胞がLSDを欲しがるようになってくると、もうそれを落とすのは非常に困難になる。LSDが瞑想に導くために使えるのは、からだにそのための用意ができている場合だけに限られるのである。
また、左道のタントラでは、アルコールを瞑想の助けとして使う。この修行者は特定量のアルコールを飲んで、油断なく醒めていなければならない。意識は失われてはならない。アルコールの量の増加とともに意識は依然として醒めたままでいなければならないのである。からだの中にアルコールが吸収されても、意識は失われてはいけない。そしてアルコール量はさらに上がってゆく。これを練習してゆくと、どれだけの量のアルコールを与えられても意識は油断なく醒めていられるようになる。その時点にまで達すると、はじめてLSDが助けとなって使えるのだ。
このようにからだの浄化する訓練もなければ意識を醒めたまま増大させるような訓練もなく、どんな準備もないままLSDを摂るのは自己破壊以外の何ものでもない。そして、瞑想の用意を整えるために、からだを準備するにはあまりにも多くの時間がかかるので延命法を開発しなければならなかった。これがハタ・ヨーガとして誕生し、現在では主に健康目的に利用されている。
何でも始めることはたやすいが、終わらせることは難しい。その時には自分のからだの主人ではなくなっているということを心得ておかなければならない。決して危ない道には入ってゆかないことである。一歩も踏み込まないのが一番いい。