東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

理性を超越した瞑想

昨日に続いて、「瞑想」の話題で。
グルジェフという名をどこかで聞いたことがあると思う。二十世紀前半に活動していたロシア人神秘思想家のことである。1920年代の彼は、パリ郊外のプリオーレにおいて『人間の調和的発展研究所』なるスクールを主管していた。
グルジェフはそのスクールにおける修行グループに巧妙かつ非合理的な方法で、求道者にはたらきかけるという実験を試みていた。彼は求道者たちのグループと一緒に、ある特定の非合理的方法を使って修行をしていたのであるが、彼はよくそれを「停止訓練」と呼んでいた。彼は突然、「止まれ! 」と叫ぶ。そうしたら誰もがそのままの状態で止まらなければならない。目があいていたら、あいたまま。口があいていたら、それもあいたまま。何か言おうとしていた矢先だったとしても微動だにしないこと! この瞑想にはテクニックというものがない。ただストップするだけ! このような約束を守ることがこの訓練の参加条件である。
この方法は体から始まる。体にどんな動きもなければ、心にも動きがなくなる。それらは関連し合っている。何か心の内なる動きがなければ、体を動かすことなどできない。体と心は二つのものではない。それは一つのエネルギーである。そのエネルギーは、心のなかより体のなかでのほうが濃い。その密度や波長は違っているが、同じ波長、同じエネルギーなのである。
求道者たちは、この停止訓練を一ヶ月間、間断なく練習していた。ある日のこと、グルジェフは自分のテントの中にいた。折しも三人の求道者たちが、その敷地内にあった乾いた運河を通っていた。それは水のない運河。一滴の水もそこを流れてはいなかった。と、突然、テントの中からグルジェフが叫んだ。「止まれ! 」運河の堤の上にいた人たちはみな止まった。運河の中にいたその三人も止まった。しかし、水がなかったから問題はなかった。と、突然、水があふれ出した。誰かが水門を開け、運河に水があふれだしたのだった。グルジェフが誰かに指示して水門を開けさせたのであろう。
水位が増して、その水が三人の首のところまできたとき、一人が運河から跳び出した。「グルジェフは何が起こっているのか知らないのだ。彼はテントの中にいて、水が運河の中に入ってきたということに気づいていないのだ」こう思いながら運河から跳び出したのである。その男は考えた。「俺は飛びださなければいけない。もうここにいるのは馬鹿げている」そして彼は跳び出したのだった。
ついに、水は彼らの鼻まで達した。と、二番目の男はこう考えた「これが限界だ! 俺はここに死ぬために来たのではない。永遠の生命を知るために来ている。この生命を失うためなんかじゃない! 」そして、彼は運河を跳び出した。
三番目の男はとどまった。同じ問題が彼を襲ったが、彼はとどまる決心をした。というのも、グレジェフは「これは非合理的な訓練だ。理性でこれをやろうものなら、ことの全体はぶち壊しだ」と言っていたからだ。彼はこう思った。「オーケー。彼は死を受け入れよう・・・・この訓練だけはやめるわけにはいかない」かくして、彼はそこにとどまった。いまや、水が彼の頭の上を流れていた。と、グルジェフはテントから跳び出して、運河に跳びこんだ。そして彼を救いだした。その男はいましも死の淵にのぞんでいた。しかし、生き返った時、彼は変身していた。彼はもはや、そこに立って訓練していた同じ男ではなかった。彼はすっかり変身していた。彼は何かを知った。彼は跳躍をとげたのである。これが瞑想という行為の何たるかだ。
もうこれで限界だというものなどどこにもない。理性と道連れのままだったら、我々は見失しなうかもしれない。ときには、自分を彼方へと導いてゆく一歩を突然踏み出さなければならない。その一歩が変身につながるのではないだろうか。これは禅の手法にも似た超越である。まさに無努力の努力というものだ。超越した時には、理性に還るかもしれないが、すでに変身している。もう同じ人間ではない。ものごとを理性的に論じることすらできるであろうが、理性は超えている。
操体求道者である我々にとっても然るべき時において、この跳躍という理性からのジャンプが同じようにあてはまるのではないだろうか。