東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

文字の上の ・・ 。


先日は、梅を見に行った時のことを書きましたが、見に行ったその夜、
操体法〜生かされし救いの生命観〜の本をなにげなく開いてみると
東京操体フォーラムの理事長でもある三浦先生が、2004年10月に
VisionSに書いた、「改めて問いかけてみる」というページが開かれました。
この中で先生は、ここ数年来、「操体法の中の根っこの部分とは?」と、基礎、基本と
思われる原点をいくつか洗い出し、改めて一つ一つ自分自身に問いかけており、そして
「この操体法の場合も、操法に目がいって、それを成している根幹がなんであるかは、
意外と理解していない、のではないでしょうか」
とした上で、この当時、改めて洗い出し、
問いかけているものの中に般若身経があると書いております。
何度も読んでいる182ページから183ページにかけての文章なのですが、この夜は
眼中という文字の上に ・・ がついているのが、どうも気になってしまいました。
眼中という言葉も、眼中に無いという言葉の方が多く使われており、最近はアウトオブ
眼中という言葉もあるぐらいで、うっかりしていると安易な思考で眼中に無いを反対に
したような意味あいでとらえてしまいます。
私の場合、安易な思考でとらえてしまっている言葉が多いので辞書で調べてみますと
     眼中 = 目の中。見える範囲→転じて、意識や関心の及ぶ範囲。
 眼中にない = 気にかけない。なんとも思わない。
と出ています。
この「改めて問いかけてみる」の中の眼中の前後の文章を抜き出してみると
「個々の持論の眼中で解釈しようとする者がいる。それはすでに身経ではなくなってしまう」
とあります。
私の場合、以前に何度かこの般若身経に関して、健康体操という捉えかたはしてないにせよ、
自分の知り得たほんの僅かな人体に関する特徴の知識を基とした意識関与により、取り組んで
いたことがありました。
しかし、操体は、自然法則の応用貢献の場である太極という無極無限の宇宙生命現象の
中心理念に基づいて、その生かされし救いの生命観に学ぶ場であり、創始者である
橋本先生の生涯は一貫してこの自然法則の応用貢献を貫かれた学問であったことであり、
その根底にあったものは「神と私は一体であります」という神人合一の生命観にあったわけで、
そこから自然体としてのあるべき姿を身体運動の法則として説いているわけであり、
「お経のように、からだの使い方、動かし方にも法則があるんだ」と言っているわけですから、
目で見える範囲、視覚で捉えられる範囲、個人の意識や関心の及ぶ範囲、
また、人間が人間を止めた状態で詳しく観察した範囲、人間の動きがすべて観察できたとしても
その人間が自然なのかという問題の範囲、などで解釈できるものではないということが、
最近になってやっと解りかけてきた気がします。

もう一度書きますが、橋本先生の根底にあったものは神人合一の生命観であり、そこから
自然体としてのあるべき姿を身体運動の法則として説いている。

自分が何回かやってみた、こうすればもっと良いのではという取り組みは、全部が全部
価値のないものとは思っていませんが、橋本先生が60歳のときに「平均集約運動法」として
一旦はまとめたものを、その後何度も加筆、修正し、「般若身経」として命名しなおし、
95歳で生涯を閉じるまで学び続けたことに比べればなんとも薄っぺらく、
事実自分ではその時は良いと思っても、月日を重ねていくうちに間違っている、あるいは、
こんなことはほんの一時の一部分であり、橋本先生が成さんとした事には程遠いと最近良く感じます。
「お経のように」と橋本先生はおっしゃったそうですが、お経、経典とは釈尊の説いた教えを
記録したものであり、もし釈尊が生きていたらこのように言われたであろうという信念から
書かれたものだと思われます。
「橋本先生だったらどうしただろうか?」という問いかけです。
だから般若身経に取り組むにあたっては、己のひらめきも大切だし、重要だと思いますが
そのひらめきを、橋本先生の神人合一の生命観と常に照らし合わし、学んでいくという姿勢が
大事なのではと、この眼中の上の ・・ から感じました。



友松 誠。