東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

心にのこる先人のことば(1)

ノヴァーリス(200年前のドイツの詩人)の言葉に
『すべてのみえるものは、みえないものにさわっている、すべてのきこえるものは、きこえないものにさわっている。すべての感じられるものは、感じられられないものにさわっている。おそらく、考えられるものは考えられないものにさわっているだろう』
この言葉を臨床のあるべき姿に置きかえてみるなら、
本来あるべき臨床には、全てのみえないもにふれているだろう。すべての感じられないものにふれているだろう。おそらく、すべての考えられないものにふれているだろう。本当のものはみえるものの奥にあって、物や形にとどめておくことのできない領域のものである。ですから、みえるものはみえないものにきこえるものは、きこえないものに、感じられるものは感じられないものに、おそらく考えられるものは考えられないものさわっているのである。

・すべての見えるものは見えないものに附随している 自分の見えている臨床の後ろには、恐ろしいほどの深く広い臨床がかくれている。そこから自分の生も生じ、やがて、その中にとけていく。そういう思いに至らなくてはいけない。
快をききわける、とは、その頭の欲の脳の意識でききわけよ、とは一言も言っていないのだ。自分の自我なる心の識別で判断するものじゃないのだ。ただただ、からだにききわければいいことなんだ。快とはからだの無意識の意志がききわけてくる生命感覚なのだ。狂った、暴走し続ける欲脳(自我)で考えるものじゃない。

・植物には全ての周期があって、その機を逸すれば色は出てもその色は命のさかりの色とはいえない。人間にもすべての周期がある。その機を逸すれば命のさかりの色を出すことはできない。命のさかり色とは精気である。その精気は周期の機である。人は人それぞれに1年の中で1日か2日、人によっては3日か4日、これはと思うようなすごい日がやってくる。それは私の運命がハレー彗星の如く接近してくる日だと言う。人は
1.それに気づく人間
2.気づかないが、ちゃんとそれに乗っかってしまう人間
3.まるで気づかず、通り過ぎてしまう人間とがいる。
大方の人間は三番目。そんな、すごい日があるんだよ。教えてあげても「へェー」てなもので、他人事で縁なき衆生なのである。この運命の日の到来を「時節到来」という。
時節到来しなくては、人の運命(私の運命)はひらけない。この時節到来にジャストフィットした人間、ピタリと照準した自分のみ。驚くべき運命の展開が始まる。ただジタバタするだけでは決して運命はひらけないのです。

・人間とはただただまさに空間の集合にすぎない。おいでになるのは仏さま神さま・・・(空即是色)仏さま、神さまのイノチのなかに生かされているそれが人生の泣き笑い・・(空即是色)

私ごときの臨床など、大したことではない。たいしたことと思うから苦しむ。我執を働かさず大いなるもののこころ(ふところ)の中に身をおいて(とびこんで)任運自在にたのしむことである(任運自在 傍点)。この人生も大したことではない。我に執着するから苦しさを写し出す。この世界を動かしているサンカーラ、おおいなるもののこころの中に身をおけばよい。人生も任運自在にたのしむことである。

・こころはうつろいやすいもの 見落とすことなく、その中に居よ。大いなるもののこころの中に身をおきなさい。臨床も心(我執)でみるな。意識で診ることだ。心でみるなとはこころを使うな、意識を仕え、ということだ。その意識とは不可視なる生命そのものである。

・常懐(じょうえ)悲感(ひかん)、心遂(しんず)醒悟(しょうご)
どんな悲感があろうとも、それを外にこぼすな、流すな、胸の奥深くに抱いていよ、そうすれば、その非感がやがて、おまえの心を醒ましてくれる、そして悟りに至らしめる。そうした意味で、自分の人生に自分を支える言葉(言霊:イノチのコトハ)をいくつもっているか。悲しみに耐える力をどれだけもっているかも大切な支えである。そうした意味で、どのような非感も外にこぼさず流さずとは、この私のイノチの内に、神性を相続している真我神人合一なる心、愛があるからです。


三浦寛



2011年東京操体フォーラム分科会は4月29日に千駄ヶ谷津田ホールにて行います。http://www.tokyo-sotai.com/

2011年2月から足趾の操法集中講座を開始します。


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