東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

私にとって操体とは検証である(二日目)

操体臨床において、クライエントの症状・疾患というものについて診方、感じ方に変化が起こったのは一年ほど前からである。この頃からクライエント自身が訴える症状・疾患の内容を聞くことよりも、クライエント自身が自分のからだに起こっていることをどのように捉えているのか、ということに興味を覚えるようになってきた。二日目はこういった「観念」の検証である。
例えば、からだのどこかに痛みがあるとする、自分の中に痛みが起こるためには、一体どんな観念を携えていなければならないのか。これらの人に共通しているのは必ず否定的な感情を持っているということに気がついた。疾患が元の健常な状態に戻るためには、からだ自身が治しをつけてくるからにほかならない。しかしこういった良能作用がうまく働かないとすれば、その疾患に対処できないと、自分の頭の中で決めつけた定義づけが、からだの良能作用に抵抗しているからである。自分の良能作用の力の方が疾患を引き起こしている力よりも低いと思い込んでいるということだ。こうなると他力的な治療を施しても治癒につなげるのは難しい。治ろうとする力と疾患の力の間に摩擦が起きているからである。これら二つの力が、もし対等だったなら拮抗することはないはずである。
そもそも良能作用という独占的な治癒力のみで治しをつけることはない。治療は疾患の力とからだが持つ治癒力との相乗効果によってその役割を果たすことになる。そのためには疾患の持つエネルギーを認識し、その力を治癒力へと向かわせる必要がある。何故なら、治癒力のエネルギーと疾患のエネルギーは異なるものではなく、同一のエネルギーであり、治しをつけるために、この二つは必要不可欠なものだ。疾患を否定することなく、それを認めて、その力を受け入れるというのは、肯定的な感情を持つということになり、治しの定義づけを変えたことになる。
このような観念を携えるために、操体ではある答えを持っている。それが、「快感覚」を味わうということであり、それは不快から逃れることでも、快を探すことでもない、不快を否定しないで自分のものにすれば、やがて不快の持つ「快」が吸収され始める。快を味わうことは、自分が快を選んで体験しているということであり、意識的に選んで、自分の現実を選択しているということだ。その現実の中で症状・疾患があり、苦痛が存在していても、「状況」というのは常に中立的な立場にある。それだけではまだ何の意味もなく、悪い状況だと捉える必要もない。何故なら現実はいつも自動的なフィードバックシステムとして働いているからだ。
快の理論は哲学や心理学ではない、力学、物理学という自然の法則に基づいている。三浦寛師の講話の中で『患者を悪いからだとして診ない』、『もともとは良いからだであるから治るのだ』と、いう話を記憶している。これは患者を病んでいる弱い存在として見ないということであり、慈悲の心を持って接してはならないと、戒めているのだ。でないと、その病んでいる状態をより強調することになってしまう。患者が病んでいるといった診方をせずに、自力自療で回復するということを完全に信頼してあげるのが操者の心のあり方なのである。
私にとって臨床というものが、如何にして「協力者」としての自覚を持ち、その意味を理解し、中立的な状況に向き合っていくのかということが大きなテーマになっている。