東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

私にとって操体とは「松下村塾です」

私は毎年、少なくとも一回は必ず行く場所があります。それは島根県のお隣山口県萩市です。
この時点で又か福田!というブーイングが聞こえてきそうですが、無視して先に進めますと、時間にして車で約3時間半ってところでしょうか。目指すは萩市内の松陰神社です。萩観光なら必ず行く場所なので何ですが、その神社の敷地内にあるのが、タイトルにもなっている松下村塾です。
まぁ現物を見るとこの僅か八畳と十畳の間をくっつけた様な小さな掘っ立て小屋なので、こんな小汚い場所から後の維新回天の原動力となった志士達が多数輩出されたと考えると、何だか感慨深くもあります。
この松下村塾を主宰していたのが吉田松陰その人でした。松陰が塾を開く切っ掛けとなったのは、ペリーの黒船が来航した際に、渡航目的でペリーに直談判しようと、黒船の乗船を試みて失敗、捕縛されて萩へ戻されました。
最初は野山獄に繋がれていましたが、藩主の寵愛を受けていたこともあり、後には実家の親父さんの家にお預かりになり、そこでの禁固となりました。
11歳の時に藩主の御前で講義をし、19歳の時に兵学師範(教授)になったほどの逸材でしたので、近所の子弟達がこっそりと、一人又一人と集まって来て、暗黙の中で塾の形が出来上がっていきました。

当時、日本国内には武士であれば“藩校”が存在し、そこに行けば学ぶことは出来たのですが、武士以外は学ぶことが殆ど出来ませんでした。
萩にも明倫館と言う藩校はあったのですが、あくまでも藩士教育の場なので、士分以下の足軽や中間などには受講資格はありませんでした。
ところがこの松下村塾という私塾は農民、町民、藩士の子弟など身分の上下関わらず、様々な人々が平等に学ぶことが出来る塾でした。
最初は農民や町人などが多かった塾も噂を聞きつけ、藩校の守旧的な学問に飽き足らなくなっていた士分の若者達も出入りする様になり、益々活気を帯びていく様になりました。
松陰の教育はまさに風雲急を告げようとしている時代が求めている現場で役立つ実学でした。数百年続いた鎖国や衰えたとは言え、長く続いた幕藩体制によって安穏と過ごしていた時代から、諸外国に開国を求められ、時勢が大きく動き出した世の中は、頭の固くなった重役よりも変化を求める若者達の手によって動き出そうとしていました。
松陰が遊学中に培ったネットワークにより、諸外国や各藩、幕府の最新情勢を塾生達に話しながら、個々の持っている個性をどう活かし、世に役立てていくかを毎晩、激論を交わしていたようです。その余りの苛烈さに村塾に子弟が行くのを警戒する父兄も多く、読書なら許すが、政治向きの話しはしてはならないと戒告されるほどだったようです。
松陰の素晴らしいことは、思想家としての考え方もそうですが、それ以上に卓越した人物眼にあったと言えます。私が敬愛して止まない高杉晋作評は「性質は傲慢で、人の言うことに耳を傾けないように見えるが、取るべきところは取る人物である。必ず大成長する。私が事を成すときは、必ず高杉に相談するだろう」と評しています。この様に各塾生の性格、特性を見抜きそれに合った指導を行っていたことは教育者松陰の真骨頂だと言えます。
残念なことに、その師匠譲りの苛烈な行動が災いしてか、殆どの優秀な塾生達は維新を見ること無く落命しています。

ふと私は毎年、松陰神社に何を求め行っているのだろうか?と自問自答することがありました。ただ単に幕末好きだからではない、惹かれる理由がある筈だと自分自身考えてみると、私の操体への学びに対しての、年に一度の反省会である様な気がします。村塾や彼等の史跡を巡りながら、彼等の思いや息遣いを感じつつ、彼等に恥ずかしくない行動が出来ていたかどうか?思いを馳せ、幕末と現代を肌で感じ、来年はもっと色々な報告が出来る様に精進すると誓いながら萩を後にするのです。
気が付けばもう10数年もこの様なことを繰り返しているのです。

私達、東京操体フォーラムにも三浦先生の臨床講座を卒業した同志達が、第五日曜日に集う「塾・操体があります。いつも顔を合わせるわけでもない、個々が地域も違えば環境も違う中で展開している操体の同志達です。面白いのは数ヶ月振りに会っても何の違和感もなく、意識の同調がはかれることです。
「塾・操体はあくまでも実行委員のメンバーが主体になって、現場で起こっていることなど、疑問や不安に思うことなどをぶつけあう場所です。
三浦先生は松陰の如く、今でも常に現場の最前線で我々以上に操体と真摯に向かい合い、追求されています。時に弟子達と一緒に汗を流されている姿は松陰の行っていた現場実学そのものです。
村塾から巣立った志士達はその後、様々な形で明治日本の近代化に関わっていくのですが、私達フォーラムのメンバーも橋本先生から三浦先生に渡されたバトンを受け継ぎ、次代に渡していく役目を背負っています。

松陰は好んで「狂」という言葉を使いました。現代では“狂”は余り良い表現としては使われませんが、陽明学においての「狂」は「理想を高く持ち、何の虚飾も、隠しだてもなく、心のままに率直に行動する」「若し過失があれば、改めさえすればよい」という考えです。世俗社会の常識に対し、果敢に挑戦する「実践的理想主義」であると言えます。
周囲がどう言おうと、自分の信念に基づいたものに対して真っ直ぐ突き進む、これこそ「狂」の本質であり、我々物事を次代に伝えていく人間の持つべき心の有り様だと思います。

幕末期と同じように混乱と閉塞感を抱えている今の日本だからこそ、信じたものに対して真っ直ぐ突き進みたいものです。
最後に余談ですが、三浦先生の三軒茶屋研修所から約2Km程先にも「松陰神社」があります。神社内に松下村塾も再現しているようです。
何だかこれ又因縁を感じます。