東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

私にとって操体とは「想念」

私が操体と出会って最も救われたのが、「息食動想」のやはり「想念」です。
”想念”と書くと非常に高尚な感じがして書き難いのですが、私にとっての想念とは毎日毎日の想いのことです。どんな想いで仕事をしているのか?どんな想いで日々生活をしているのか?など、日々の想いを書いてみようと思います。

人の心や想いは目に見えないものなので、世の中で一番曖昧な、それでいて一番強固なものと言えます。想いがその人を形作り、想いが性格や生き方全てを作っているのです。
ここ数年、精神的にストレスを抱えている方が非常に増加しています。そのストレスが目に見えない負のスパイラルとなって様々な身体に不調を訴える原因になったりしています。
そういった精神的にストレスを抱えている方達に共通しているのが、言葉による“決めつけと締め付け”です。よくあるのが、精神的に不安定な方が「先生、これって病気ですよね?ダメですよね?わたし」とか「私には無理です、ダメです、出来ません…」など自己否定の言葉を好む傾向にあります。
この他にも、来所される方達に共通しているのが、「病院で診断書が出ています!から」という言葉です。
何だか診断書が出ていることが水戸黄門の印籠の如く言われるのですが、私達が見ると80%は診断書通りの症状では無く思い込みと決めつけだったりします。確かに原因不明では不安の方が先に立ち、とにかく病名を付けて貰って気分的にもハッキリ・スッキリしたいという気持ちは分からんでもないのですが、余り言葉で自分を縛って欲しくないのです。

言葉はコトバ、言の葉、言霊(ことたま)に繋がるからです。我々が日々想いを張り巡らし、思考した中で紡ぎ出すコトバはまさに想いの丈(思いの丈)であり、それらは切なる願い、そうなりたいという行動も含めた個々の生きる方向性なのです。
“想念”とは思い考えること、念じることなどと言った意味があります。私はこの“想念”の強さ、想いの強さがそのまま、その人の個人としての強さに繋がると思っています。人の強さって何で判断出来るものなのでしょうか?
腕力が強いこと?お金を持っていること?…ムムそのどちらも外れではないのですが、どちらも一時はあっても割に儚いものだったりします。
“ペンは剣より強し” という諺がありますが、コトバというのは使い方によっては薬にも毒にもなる恐ろしいものだということを分かった上で発する必要があると思います。汚いコトバを日常的に吐いていればまさに自傷行為の様に自分自身の心と身体を蝕んでいきます。言霊とは自分の身の内から吐きだした言葉で全てに魂が宿っており、コトバそのものに大きな力があるということです。
そしてコトバはその人の生きる姿勢ですので、吐いた言葉通りに人生も進んでいくのです。俺はダメだと嘆いて生きている人は自らがダメになる様に生きているわけですから、素晴らしい人生が送れるはずもありません。

そして、時としてたった一言に救われることが人生にはあります。私はもう何年も前ですが、臨床家として日々施術を行っている時に、慢心から自分の力で何とかクライアントの症状を改善したいと、我(が)が前面に出て施術を行っていた時期がありました。
不思議とそういう時は同じことをやっているようでも、クライアントの身体に見透かされてしまい、良い結果が出ません。
そんな悶々として日々臨床を行っている時に畠山先生に言われた一言で救われました。
それが「福田くん、操体はネ・・治すとこまで関与しちゃダメだよ」という言葉でした。もう目から鱗でした。自分自身、何をそんなに突っ張っていたんだろうかと、凄く気が楽になったのと、肩の力が抜けました。
操体はあくまでもクライアントが自分自身にしか分からない、“感覚”をききわけ、快を味わうことで成立する施術なんだ、自分が関われるのはあくまでも、快の橋渡し役であって、それ以上でもそれ以下でもないんだと、改めて気付かせて戴きました。
この言葉が今に至るまで、私の臨床の根底にある想いです。常に自問自答し、私の臨床の指針となっています。
そして「バルの戒め」が私の人生、生き方そのものの、今では土台となっています。『頑張る、威張る、欲張る、縛る』張らない生き方こそが、臨床家としてのあるべき姿であり、現代日本で生きて行く姿ではないかと思っています。
頑張ることは出来ますが、頑張り続けることは人間には出来ません。
出来ないことは最初からしないことです。張らない生き方をしていくと、今迄見えてこなかったものが、色々と見えてくる様になります。
魂は本質的に快に向かい、最後は快に帰るのですから、生きる指針は心地よさに身を委ね日々おくることだと想います。
出来ない訳ではないのです、先ずはやることから始めてみてはどうでしょう?張らない生き方と自らを認める生き方にこそ、本質がみえてくる筈です。