ドイツ人の哲学者にオイゲン・ヘリゲルさんという方がいらっしゃいます。
ご存じの方も多いと思いますが、ヘリゲルさんは日本の弓術について紹介した本を出した方です。
(『日本の弓術』 岩波文庫 / 『弓と禅』 福村出版 など)
弓術を通して日本の精神文化について学んでいく過程をまとまたものですが、
この弓の師範がまた難解なことをおっしゃるわけです。
「力で弓を引こうとしてはいけません」。
「的に当てようとしてはいけません」。
しまいには「あなたが矢を射るのではありません!」。
往生したヘリゲルさんはたまらず「私が射らないで誰が射るの?」と質問します。
すると師範は「 それ が射るのです」と答えます。
ふむふむ、『臨済録』の そいつ に続いてまたでましたねぇ。
それ って一体なんですか?
もちろんヘリゲルさんだって同じ質問をしましたヨ。
そしたら師範は「ひとたびこれがお分かりになった暁には、あなたはもはや私を必要としません」と答えます。
つまり それ は最終奥義ってことなんですネ。
「〜 蜘蛛はその巣を舞いながら張ります。しかもその中で捕えられる蠅が存在することを知らないのです。
蠅は呑気に日向で飛び、舞いながら、蜘蛛の巣に捕えられ、しかも何が自分に迫っているのかも知らないのです。
しかしこの二つのものを通じて それ が舞っているのです。そしてこの舞の中では内と外とがひとつなのです 〜」
(『弓と禅』 福村出版 / 稲富栄次郎・上田武 訳 より)
いやいや、さっぱりわけがわかりません。
やっぱりヒヨコちゃんに最終奥義はキビシイですぜ。
ところでワタシの記憶が確かならば(どっかで聞いたな・・・)、
操体とは「わけがわかるってことだ」と教わりました。
決して「膝倒し、つま先あげ、カエル足の3点セットを覚えろ!」とは教わってません。
わけのわからんことって結構ありますよネ。
でも、わけがわからないからわからないだけであり、
わけさえわかればわけないことなのかもしれません(ややこしや・・・)。
わけのわからないことをわかるようにしていくのが操体の学び。
だからこそきっと一生愉しめるんだと思います。
つづく
中谷之美