ワタシの治療所の隅に置いてある『臨済録』。時間があるとちょこちょこ読んでいます。
もちろん難しいことはわかりませんが、何となくピン!とくるところもあるんです。
「〜 お前たちは信じきれないから、あたふたとうろたえいろいろな外境についてまわり、
万境のために自己を見失って自由になれない。お前たちがもし外に向って求めまわる心を
断ち切ることができたなら、そのまま祖師であり仏である。お前たち、祖師や仏を知りたいと思うか。
お前たちがそこでこの説法を聞いている そいつ がそうだ。
ただ、お前たちはこれを信じ切れないために外に向って求める 〜」
「〜 お前たちの肉体が説法を理解するのでもなく、
お前たちの五臓六腑が説法を理解するのでもなく、また虚空が説法を理解するのでもない。
では、いったい何が説法を理解するのか。お前たちの目前にはっきりと存在し、これという
形は無いが、自ら明らかにその存在を意識しているもの、そいつ が説法を理解するのだ 〜」
(『臨済録』 岩波文庫・たちばな出版 / 朝比奈宗源 訳 より)
なんだか三茶の研究所で三浦先生の講義を聴いてる気分になりますナ。
ところで操体では気持ちのよさは「アタマではなく、からだにききわける」としております。
「聞(聴)き分ける」には「聞いて音や声などの違いを区別する」とか
「聞いてその意味を理解する。納得して従う」なんて意味があるそうですので、
気持ちがいいかどうかは「からだにきいてみて」ってことになりますよネ。
では一体「からだにきく」ってどういうことなんでしょう?
からだの内にきいてみるような誰かがいるんでしょうか?
もしかしたら『臨済録』にあるように そいつ がいるんでしょうか?
だとしたら そいつ って一体誰で、どこのどいつなんでしょうか?
う〜む、妄想がふくらめばふくらむほど往生しちゃいます。
そういえば「どこのどいつ」で思いだしましたが、
この手の展開で往生したドイツ人の哲学者もいましたよネ。
つづく
中谷之美