東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

選名−その後

前回、三月のブログで私が気学について、つらつらと書いておりま
したが、『選名』『仮吉方』に関して進捗がありましたので、遅
ればせながらご報告を致したいと思います。

よく、気学操体って違うモノでしょ?って聞かれることがあるの
ですが、イヤイヤ、さにあらず、私が気学に惹かれた大きな理由の
一つは、橋本哲学の根底にもある、その生命観や宇宙観と、気学の
思想における類似点でした。

気学は元々、中国の殷周夏時期に成立、体系化され、仏教と共に日
本に入ってきた歴史ある学問です。歴史的に用いた人物としては有
名どころとしては、平安期の陰陽師安倍晴明然り、戦国時代の軍
師などは戦時に常識的に用いていました。
有名なところとしては、江戸時代黎明期のフィクサー天海僧正の用
いた、大いなる大都市構想、江戸の町作りも、陰陽・風水学によっ
て創られました。

それらを、明治末期に九星術と陰陽五行説と十二支を組み合わせ、
園田真次郎『気学』として発表しました。
私たち地球上に生きている生き物は、大小に関わらず、宇宙の運行
によって活かされています。

天の気が最初に地球上に降り注ぎ、天の気によって地上の気が立ち
上がり、その間に我々は活かされているので、当然、宇宙の気によ
って体調やメンタル部分までも影響が及びます。
ですから、当たり前の如く、今年一年、今月一ヶ月、今日一日とい
った、宇宙の運行を理解した上で、過ごすのと、何気なく日々過ご
すのでは体調も運気も全てが変わってくるのです。

それを分かり易く後生に説いた学問こそが、気学で有り、ある意味
人生における『Life Navigation』の様なものです。
その初級編として出来るのが、『選名』です。詳細は前回の私のブ
ログにも書いているので割愛しますが、簡単に言えば名前を代える
ことです。

先週、裕海師匠のブログ”上をむいて歩こう”の中で、三浦先生が
三つのビーカーにお米を入れて、バカヤローと書いた紙、ありがと
うと書いた紙に個々にバカヤロー、ありがとうと声をかける、そし
てもう一つは無視するという話がありました。

まさに、これこそが『選名』の真骨頂なのです。
無視されることは論外としても、運気の良くない名前を子供の頃
から呼び続けられることで、子供自身に刷り込まれれば、その子
は親が子にと思って付けたはずの名前が、仇になることもあるのです。

DQN、キラキラネームなどと言われるふざけた名前が、興味本位にT
Vで取りあげられる昨今だからこそ、漢字という象形文字を使う民族
である日本人が、名前の持つ重要性を今一度考えなければと思うの
です。

今、世の中には様々な姓名鑑定法が存在しますが、どれも一長一短
です。
画数鑑定が姓名鑑定の大半を占めていますが、素人に分かり易いと
いう理由と、単純に指導者の勉強不足の他なりません。
漢字という特殊な文字を言語として操り、音として発する日本人に
は天然自然の理(ことわり)を理解した上でないと、安易に鑑定は
出来ないのです。

日本における姓名鑑定の基礎を創ったのが、明治時代に現れた天才、
『小林晟高(こばやしせいこう)』ですが、日本でこの小林晟高の流れを
汲み、実践されているのが、村山幸徳氏の姓名鑑定です。

と、前置きが、かなり長くなりましたが、先月の5月9日より、
『福田勇治』から『福田祐也(ゆうや)』に名前を変えました。
名前の詳細を細かく書き出すと、それだけでトンでもない文字数を
要するので割愛しますが、二つあった候補の中から、何故、『祐也』
にしたのかだけを書きたいと思います。

当然のことながら、『三大原則』『五大真理』に則って選名して
戴いたので、問題はないのですが、『祐也』で気に入ったのが、
『祐(ゆう)』の文字でした。
以前の勇(ゆう)も嫌いではなかったのですが、地数(名前の最初の
一文字)の9画は凶数であるのと、勇は”まおとこ”とも読み下せますし・・・

”祐”に惹かれた最大の理由は、私の愛読書坂の上の雲の主人
公の一人、秋山真之の言葉が頭にあったので、大きく惹かれたのだ
と思います。

坂の上の雲 全8巻セット (新装版) (文春文庫)

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一般的に秋山で有名な言葉は(ホントは東郷元帥の言葉を加筆ですが)
『天気晴朗なれども波高し』ですが、もう一つ、海戦終了時に言った言葉が、
『天佑ト神助ニ依リ』という言葉で戦闘詳細を報告したそうです。

『天佑神助(てんゆうしんじょ)』の意味としては、天の助け、神の
加護ってことですが、人智を越えた奇跡的な部分、思いがけない偶然
によって助かる、或いは助けをうけることの例えのようです。

臨床家として日々、色々な方々のからだと向かい合っていると、色
々と不思議なことを経験することもあります。
少なくとも操体の臨床家であるかぎりは、自分の力でクライアント
の状態を改善しよう!とか、俺が!俺が!などと言った『我(が)』
を挟む余地はどこにもありません。

クライアントのからだは常に、私達臨床家を冷静にみています。
「こいつ、ちゃんと俺の声を聞いてくれるのか?」という無言の訴え
をどれだけシッカリとうけとめ、施術に反映出来るかが、我々臨床家
のつとめであると考えます。

臨床を重ねると、人智を越えた部分でからだが変化をしていく瞬間に
出会うこともあります。今後、臨床家として天の助けを受けながら、
どれだけ、からだと向かい合っていけるか、そんな愉しみな、名前を
戴きました。

名は体を表し、人生をも反映するのですから。