室町時代後期から江戸時代初期にかけて、
曲直瀬道三らを中心に「黄帝内経」や金、元、明の医学が主流となり、
後世派と呼ばれた。
江戸開幕後100年ほど経て、
この医学に疑問を持つ医者が輩出した。
陰陽五行論によることばの説明で満足するのではなく、
もっと事実に即した効果のある治療法を求め、
実際に事実を観察し、臨床的に追試しなければならない(親試実験)とし、
「傷寒論」(漢)に帰れ、と説いた。
その中心人物が吉益東洞であり、
古法派と呼ばれた。
東洞は自らを扁鵲、仲景ら疾医(本当に病気を治せる医者)の系譜に属する者とし、
陰陽医(陰陽五行論の理屈で病態を解釈する理論家)を批判したため、
当時の医界に大論争を巻き起こした。