自称福岡のシティーボーイの秋穂ですが
私は生まれて小学校に上がるまでの6年間を
福岡県山田市(現在の嘉麻市)で過ごしました。
この街は私が生まれるかなり前の昭和30年代頃は
日本有数の石炭採掘地である筑豊炭田の隆盛とともに
人口4万人くらいまで膨らみ、活気がある街だった様ですが
炭鉱が閉山した昭和45年以降はどんどん人口が減少し
2006年の平成の市町村合併の折近隣の市町村と合併するころは
人口は3分の1程に減り、北海道の歌志内市(うたしないし)という
市に次いで2番目に小さい市という名誉にも輝いております。
因みにこの歌志内市は現在もダントツ最下位の様です。
やっぱり何事においてもナンバーワンは突き抜けてますね。
何年か前に福島の炭鉱町を舞台に常磐ハワイアンセンターを
作り上げるまでのエピソードを『フラガール』という映画で
上映していましたが、この映画を見ながら自分の幼少の時に
見た景色とリンクして何となく懐かしく思えたものでした。
私の祖父はこの街でホネツギを開業しており、
私の父は祖父の接骨院に勤務していました。
未だに地域で唯一の接骨院というような地域ですから
当時は炭坑労働者を中心に随分賑わっていたそうです。
うちの父曰く近所のどんな病院よりも患者を抱えていた
というぐらいですから随分忙しかったのでしょう。
私が昭和49年生まれですから、その頃は橋本先生は78歳
日本医事新報に『山寺の晩鐘』を掲載し徐々に操体法の名前が
世間に響き渡り始めたころで、その2年後の昭和51年には
三浦理事長が東京操体フォーラムの母体である操体療法東京研究会を
設立されている。私が母親の母乳を飲んでいる頃から操体法を
世間に広めようと指導されていたというのが本当に驚きです。
まだ操体法が世間に出る前から橋本先生に師事し
未だ野のモノとも山のモノともわからない操体法を抱えて
東京で単身開業した三浦理事長の功績はあまりにも偉大です。
明日はいざ福岡へ〜コンプレックスの種をまく〜です。