おはようございます。
ずいぶんと暖かくなってきましたね。
日中は木綿のシャツの肌触りがすがすがしく、ここちよく感じます。
木綿でも絹でも、生地を織るには縦糸と横糸を交叉させて織り込んでいきます。人間社会は「報い」の成立する社会ですが、「救い」の想念をところどころで立て、織り込むように意識すれば、気持ちよく快適に過ごせる、良い「報い」となってかえってくると思います。
ダメージデニムがカッコイイと言っても、横糸だけとなってしまえば、肌触りが良くないですものね。
生地を織るには、糸が必要だが、糸は紡がなければならない。紡ぐとは、綿や繭を錘にかけて繊維を引き出し、縒りをかけて糸にすることを意味する。
この紡ぐという言葉は、糸をつくるとき以外でも使われる。「言葉を紡ぐ」「心を紡ぐ」「いのちを紡ぐ」など、なんとも心地よいヒビキとなる。なにか大切に育むような印象を受け、やさしさや美しさも感じられる。「言葉を紡ぐ」という場合は、詩や文章の雅さを表すものでもあるという。
言葉には認識を共有するという面がある。これがなければ言葉での意思疎通はありえない。カラスが黒いというのは、みんなで概念を共通認識として共有しているということ。実際には、光のあたり方などで、白く見えている部分もある。しかし、あえてそんな事をつっこむ人はいない。概念を共有するから意思疎通がスムーズにいく。便利ではある。
しかし、それによって物事の本質とか真理といったものを、なおざりにしてしまう面もある。概念というのは頭でつくる世界であり、そこに捉われてしまうと本質がうらむやになってしまう。これは、感覚のききわけを蔑ろにすることにもつながる。心の豊かさにはつながらない。
心の豊かさどころか、身心のアンバランス、不調を招くことにもなる。からだは感覚を共有したいと望んでいるのに、頭でそれをシャットアウトしてしまっていれば、身心のアンバランスは起こるべきして起こる。当然の報いでもある。
概念は概念として持たなければならないが、そこにもう一捻り、感覚のききわけを加えてほしい。からだにききわける、自分自身に宿る御魂にききわける。
カラスは黒い。しかし自分の頭の中で、のっぺらぼうに黒く塗りつぶして縛り付けないこと。この縛りが良くない。目で見ていることは事実なのだから、目で見たというからだの感覚をききわける。決してのっぺらぼうな黒さではない筈だ。
からだはありのままの真実を伝えてくれているのに、頭の既成概念で縛ってしまうと真理は立たなくなってしまう。
最近読んだ本にこんなことが書かれていた。
「目で見る行為というのは、ただ見るのではなくて、見る対象と内面的な交感・交渉を持つ意味があったという。古来、森や川を見ることは、その森や川が持つ自然の強い力を自分の身に移し取る行為だった。対象の魂をよびこむことで新しい生命力を身につけようとしたのです」
- 作者: 小山鉄郎
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ただ見るだけではなく、もう一捻り。からだの、あるいは御魂の感覚のききわけをとおして、しっかりキャッチする。それらを自分自身の中で縒りをかけて、紡いでいく。
「言葉を紡ぐ」「心を紡ぐ」「いのちを紡ぐ」という語に共通するのは、そういうことだと思う。だから、やさしさや美しさを感じるのかもしれない。
つづく。
2014年4月27(日)
東京操体フォーラムが開催されます!
会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。
テーマは「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
是非お越し下さい。