<どこまで修めるのか?>
「本人」は悩める力を持ち、「からだ」は治る力を持つ。
この「環境」条件は、私たちひとりひとり違っている。
本人の治る力は「本人」に備わっていても、長年の癖や、様々な思い込みによって「ボディーの歪み」をきたすことが多いのである。
「ボディーの歪み」こそ、私たちひとりひとりの「環境」となり、さまざまな症状や疾患と言われる現象変化と深く関わっているのである。
この場合に、「からだ」の治す力を最大限に発揮できるようにすること。
つまり、「からだ」のお手伝いをするのが「操体の指導者」である。
「からだ」にシンプル、「からだ」に優しく、「治る」介助補助をするのだ。
「治る」とは何か?
そもそも、治るのは「本人」以外の誰でもないのだから、その究極体験を言えば、「死」であって、いつか私たちひとりひとり、この世を去るときがやってくる。
その自分自身の「死」も「本人」だけが体験するのである。
変わってあげることができない、故に「自己責任」の分担範囲なのだろう。
このような考え方のない治療体系には、私自身全く興味が湧かない。
ここまで引きつけられるのは、「操体」独自の哲学思想と相まって、「からだ」本位であってこそ宇宙の真理に適う「生命医学」として成立している。
言うなれば「操体」は、生命分析に至る最高学府の学問体系でなのある。
しかも、創始者橋本敬三師曰く「体系付けてきたものの、いまだ完成していない」
・・・故に底が見えない・・・。
深く学べるからこそ面白い。
しかも、"腑に落ちる”体験を、"何度でも味わいつつ"、学問にできるのだ!
岡村郁生