おはようございます。
一昨日、昨日と孔子の「六十にして耳順う」という言葉の意味を考えながら書きましたが、耳順うには他の人の言葉が素直に聞けるようになるという以外にも、他の意味もあるのではないかと思いました。
他の人だけではなく、言葉をしゃべらない存在の声にも素直に耳を傾ける、という意味もあるのではないでしょうか。
この世界は人間だけが生きている世界ではないのですから。もの言わないものにも耳を傾けてみる。そういう優しさは必要だと思います。そういう気持ちになれば、心も潤い、ギスギスした争いの種も少なくなると思います。これも「七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」にもつうじるのでは、と思えます。
それと、忘れてはいけないのが、言葉をしゃべらない一番身近で大切な存在、それは自分のからだだという事。
からだは、ものを言いませんが、様々なサインやメッセージを送ってくれています。それに耳を傾けているでしょうか。
ある程度の年齢になり「からだが言うことを聞いてくれなくなった」とボヤク前に、自分はからだの声に耳を傾けていただろうか、と振り返る必要がある。
健康とからだには気を使っていると言う人は多い。「からだに気を使って、毎日、こういう運動をしています」しかし、それは本当にからだが求めている事なのでしょうか。
良いと思ってやっていることでも、押しつけ迷惑ということもある。からだにききわけずに押しつけ迷惑を重ねれば、そのうち何らかのトラブルが生じてしまう。
逆に、からだの求めに応じた事を行っていれば、気持ちがいい。からだにききわけてみて、気持ちのいいことを気持ちのいいだけ行っていれば、健康維持につながり、健康増進へと可能性はひろがっていく。
人それぞれ個性がある。ある程度の年齢を越えれば同年代といえども、その個性はより多様性を帯びてくる。他人様が、これが良いと奨めてくれたものが自分自身に良いとは限らない。自分のからだにききわけてみることが大切。
みんな、それぞれ個性がある。からだにききわけた気持ちよさもそれぞれ。それでも、それぞれに一貫した真理がある。それは自然の法則や摂理という事。
自然の法則や摂理をしり、からだにききわけながら合わせていこうとすれば「七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」すなわち、自分の思うままに自由にふるまい、それでも道を踏み外さないようになった、という事につうじるのではないでしょうか。