昨日に引き続き、
逆に「憶」というものに通じることはないだろうな
と感じているのは「楽」という選択肢です。
動診・操法としてあえて「楽」を通す場合は別として
操体を学ぶにつれて、日常生活で口にする言葉、
また意識のボキャブラリーから「楽」という概念が
姿を消していることに気が付きます。
「楽」を選択することで得られるものに、
人間の欲は喜んでも、
からだの方は悦んでいない。
そのギャップを少しずつ身をもって感じる様になり
楽に魅力を感じられなくなったのだろうと感じています。
見渡してみれば「楽」なものに囲まれて生きています。
その選択肢をあえて選ばない生き方もある。
時代の抱える「先」の要求に応えるように
「憶」というものも姿を現したように感じられます。