おはようございます。
操体法も初期の頃は、正體術をヒントに客観的に骨格、関節の構造を診て、運動系の歪みを修正する方法がとられてきた。
この、客観的に診るとは、本来は凄く熟練を要する事なのです。
二者択一的に対なる動きを選択し、楽か辛いかの運動感覚差をききわけると言ったって、その二者択一的な動きをどう選択すればいいのか、客観的見地から行うとなると、とても奥が深いものなのです。
機能解剖学的に局所の関節運動の知識はあっても、その動きがどう全体と関わって、全身に連動するのかという事になると、正確なことは判らなくなるし、それまで書物にもなっていない。長年の経験によるところが大きくなる。
だから、操体法が一般に広まった時に、パターン化、マニュアル化という事も起こってきた。
例えば、肩凝りであれば最初に、この動きを選択して二者択一的に楽か辛いか運動感覚差を分析し、同じように次はこの動きで二者択一的に分析し、次にこの動きを二者択一的に分析して、それぞれ楽な方に動かして→動きをタワメて→瞬間急速脱力するといったことを、2~3回行っていけば、大抵は良くなる、といった具合だ。
これも客観的と言えば客観的なのかもしれない。客観的の意味には、みんなに共通したもの、みんなに共通して当てはまる、という意味もある。
しかし、本来の運動系の歪みを修正する為の客観的診立てではなく、質はともかくとして、みんな誰でも簡単に行えるマニュアル化したやり方が先に広まってしまった。
このマニュアル化したやり方は、みんな誰でもそこそこ成果をあげられるようにはなっているが、柳の下にいつもドジョウがいるとは限らないが如く、いい加減に行っていれば、いい加減な結果につながる。
だから、効果を高めたければ、しっかり研鑽を積んでいく必要がある。
研鑽を積むと言っても、局所関節、筋肉の客観的メカニズムや自分の知識、考えばかりを優先させた押しつけの臨床経験を積んでも意味がない。
知識を豊富にする事は大事だが、客観的に診る事を突き詰めていけば、自然体からみてということであり、これは身体運動の自然法則を説いた般若身経と真摯に向き合い、まずは自分自身で自然法則に則った動きを体感する事。
自然法則に則った全身が調和に向かう動きを体感し、それによって身体がどのように変化するのかを身をもって学んだうえで、相手がどうような法則違反をしてボディに歪みを生じさせているのか、その歪んだボディからはどのような動きが一番辛いのか、相手の身になって辛い動きの反対である整復復元コースを感じとっていく。
そうやって感じとる研鑽を積んでいき、どの動きを選択して二者択一的に分析するかが判ってくれば、果たして二者択一的に辛い方にも動かす必要があるのだろうか?という疑問も湧いてくると思う。
また、辛い動きの反対である、楽でスムースな動きの可動極限でタワメて、2~3秒後に瞬間急速脱力に導くという方法も、ツクリだけでなくツクリを構成させる内側の動きとの関連を考えれば、瞬間急速脱力できない人もいて当然であり、もっと安全でバランス制御に向く本質的な事柄に目を向ける必要がでてくると思うだろう。
バランス制御に向く本質に目を向けた時、それを行うのは?
それは操者(施療者)ではなく、バランスを崩す生き方をしてきた被験者(患者)でもない。
それは、被験者の「からだ」なのだ。
そして、からだには楽という選択肢はない。からだは快、不快という原始感覚を羅針盤として生命現象、バランス現象を展開しているのだ。
このバランス制御に向く本質に気付いた時、従来の正體術の手法からヒントを得たやり方の決まり事を見直し、操体は自立への道を開くこととなる。
明日につづく。