からだにとっての「無視」とは何だろうか。
からだからのメッセージを、聞かなかったことにすることだとまず浮んでくる。
「病気」や「症状」、「疾患」などはある程度まで行き着いた結果のことであって、
メッセージとしてはかなり音量や音圧の大きなものと言っていいと思う。
分かりやすいし、ある程度を越えれば無視することはできない。
操体ではこれをよく「サイレン」に喩えることがある。
こんなに大ごとになる前に、からだの方からはなんらかのメッセージが送られているはずだ。
なんとなく、調子が悪いだとか、いつもと違う感じがするとか。
不定愁訴や微症状と呼ばれることもあるこの「なんとなく」も
立派なからだからのメッセージ。
このレベルのことは、気が付いているけど、気付かないことにしてしまう事が多い。
数日たてば、消え去ったように感じることも多いし、
そのような些細なことに気をとられている余裕が、毎日の中に潤沢にあるわけでもない。
そして、何よりも気付いたところで、残念ながらからだに対してどうすることが必要なのか、
自分で考えてみても他人に聞いてみても、わからないことだったりする。
そこでからだと向き合うことを少し諦めてしまう。
からだからのサイレンには、鳴り始める理由がある。
原因となる何かが、何でもない日々の生活の中で燻っている。
サイレンとはまた違う微かなメッセージがこのときにも届いているはずである。