昨日の続きになりますが、臨床家としてというよりも「自分の生き方を変えたい」という動機でこの学びの門を叩いた私にとってまず何を身に付ければ良いのかが当時全く分かりませんでした。
操体に関する書籍はもちろん、医学書や他の手技療法の本も色々読みましたが、当時の私はこれから操体を学ぶことにおいて自分の武器になるものを必死で探していたように思います。
動診の介助、補助のやり方、操体の哲学、般若身経。
学ばなければならないことは沢山ありましたが、いずれもよく理解が出来ていない状態が続き学んでいても収まりが悪い日々が続いたのです。
そんな手探りの状況の中、一番手応えを感じたのが足趾の操法でした。
なぜ手応えがあったのかを今になって振り返り思うことは、足趾の操法の上達は般若身経と操体の哲学、世界感の理解度と比例していたからなのだと思います。
最初は受講者の中でもぶっちぎりに下手な自分も、この反復の中で少しずつ上達し、そして夢中で取り組んでいる中で、動診の介助、補助も自然に身に付いていったのでした。
自身の中ではそんな良い感じの流れの中で着々とステップアップしていった感じがしていたのですが、そこで今となっては失敗だったと思うことがあります。
それはいざ実際の臨床の現場に立った時に被験者に対しやれることが足趾の操法ばかりになってしまい、操体の一番の旨味である「動き」からのアプローチが全く出来なかったことでした。
これは割とほとんどの人が頭を悩ますことかもしれませんが、この問題は当時の私にとってかなり深刻な問題でした。
操体の臨床家という看板を背負って患者を診ることにおいて、動きの診断、操法が出来ないことに不甲斐なさを感じる日々が続くのでした。