どちらの足から踏み出そうか。
そんなことを考えずとも、日々繰り返される動き。
たったそれだけの動きの中に、雄弁に語りかけてくれるからだのひびきがあります。それは、からだが何かに導かれることで自然とうごきが生じるという感覚にもつながってくる。
自ら(みずから)動くのか、それとも自ず(おのず)と動くのか。「自動」の意味も改めて考えてみると、「運動」と「うごき」の違いにまた一歩近づける。
ただ、そんなことを認識しながら歩いているわけではなく、言葉になる前の感覚が瞬間的に「あっ」とやってきたとき、感覚と言葉の回路がつながり出す。感覚はいつも言葉の未来からやってくる。
「ひだり」を感じていると、時間の流れは過去から未来の一直線では無くなるときがあります。直線ではなく循環のように感じられるときがある。それはまるで、空間と一つながりのからだのようです。
その瞬間までからだの外にあった空間が吸気と共にからだの中にやってくる。心臓を介した体循環の流れと肺循環の流れの中で、からだの中の空間は呼気としてからだの外に抜けていく。
この繰り返しの中で繊細にからだがききわけてくれている感覚は、先に進むというよりもその場にいながら循環し上昇していく螺旋のような時間感覚を生んでくれる。
新鮮に感じられる感覚はわたくしが記憶していないだけで、もしかしたら「はじめまして」なのではなく「おかえりなさい」なのかもしれない。
一つひとつの「うごき」を通してこんなことを考えてしまうのも「ひだり」のせい(性)なのかもしれません。