東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

ひだりで次第に光りだす②

操体の学問の中で「ひだり」というものを感覚していると、次第に「からだ」というものの範囲はどこからどこまでをいうのだろうかと考えずにはいられません。

あえてひらがなで「からだ」と表記する意味、あえて「ひだり」とひらがなで表記する意味がここにあるのではないかと思われて仕方が無いのです。

足を踏み出すという行為も、利き手、利き足ということでなしに、どちらの足から踏み出すのか。

 自身のからだをとおして、また、臨床後のクライアントの歩き方、靴の履き方をとおして、ああ、確かに変化しているなと納得できるのは、からだに共通した感覚であるが故です。

今この瞬間も感じられる「からだ」や「ひだり」は今までもずっと存在していたにもかかわらず、わたくしが認識できていなかっただけのことではないか。

それを具体的な「うごき」の中で感じられることは、認識(大脳皮質による理解)の前に、言葉になる前のフィーリングを「からだ」から受け取っているということでもあります。

それに気づくまでには、その感じられたことをどのように表現するかには個人差はありましょうが、自身が認識する前に「からだ」がそのように変化しているという点においては本人が気づくよりも速く「からだ」に現れる。

「からだ」が先行してわたくしに感覚をききわけさせてくれていると感じられると、「からだ」はボディ(体)という存在を越えて、関係性の中で主語が変わっていく。

 日々「からだ」と謙虚に向かい合っていると、この「からだ」の(反応する)時間と本人の(気づく)時間の差がどんどん埋まってくる。

それは取り決めを設けなくともからだの要求とわたくしの要求が一致してくるということでもあります。

そのとき「ひだり」にひかりが満ちているように感じられるのです。