おはようございます。
右と左の漢字、由来を探ればどちらにも神を尋ねる意味合いがあるように、古の時代には神を畏敬しつつ、身近に感じていた文化があったと思う。
今、神とか人智を超えたモノを語れば、訝しがられたり何か怪しいと思われると思う。
そうした目に見えないモノを金儲けに利用する輩がいるのも事実だし、時代を遡れば宗教が権力と結びついて侵略や弾圧に利用されたのも事実。
しかし、それは人間の自我がつくりだしてきた報いを求める神であり、本来の生命、この世の創造主であり、生命が求める神とは違うように思う。
一人一人、一つ一つの生命と生命源である神とは常につながっているのではないだろうか。
橋本敬三先生は、著書の中でこう書かれている。
「釈迦も基督も、この生命は天地創造よりも前から生命そのものであると宣言されておる。
此の世(現象界)において五官に映る肉体的人間を生命と思い込み、自分を生命源なる神仏から隔絶して考えているうちは、放蕩息子のようなもので、無限の富の後継者であることを悟らないから、その恩恵に浴し得ないでいるのだという譬話を釈迦も基督も説かれている」
一人一人、一つ一つの生命と生命源である神とは同格でもある。
しかし、此の世で生きる自分(自我)には、絶えず自己防衛の恐怖心が付きまとい、怒り、悲しみ、恨みといった感情や劣等感を生じさせ、その心の在り方でお借りしている身体までも消耗させ、十分に気持ちよく快適に生きているとは言えない状態となっている。
しかし、此の世でのその恐怖心や劣等感は、生命としては本来無いのだ。
生命としては神と同等、同格の永遠の生命そのものであり、そこに目を向けて自信をもって生きていけ、まだまだ無限の可能性があるぞ、という事なのだと思う。
その生命としての可能性を感じられるのも「ひだり」だと思う。