日本においては、仏教の伝来とともに弘法大師空海によって密教が大成された。空海の開いた真言宗の中から、当時、民間信仰として根強い伝統を持っていた性器崇拝の傾向を巧みに捉え、性崇拝の教理を組織的につくりあげた立川流真言なる左道密教が発生したことは見逃せない事実である。すでに陰陽道と融合した真言宗はこれを男女に配合し、真言宗立川流曼荼羅によると、天に陰陽、神にイザナギ、イザナミ両みことの二神、人間には男女、仏に金(知)・胎(理)の両部が描かれている。真言宗の根本経典である『大日経』には、理知冥合して仏事を成すとあり、男女の交合は、理知の冥合にして、成仏の因をなし、これ当相即道の妙にして、余教を超越する大秘密なりと、唱えた。これはかなりの力をもって、民間に流布していった。立川流真言の「受法用心集」などを見ると、性的というよりは、妖風をおび、ドクロ(髑髏)本尊なるものを箱に納め、それに、男女交会和合の液を塗ること百二十回、毎夜、真夜中に反魂香なるものを焚いて、煙をあてるべし、そうして反魂真言を誦すること千べんに満ち、金銀の箔を捺し、曼荼羅を描き、錦の袋に納め、昼は仏壇に納めてお供物をし、夜は行者のそば近くにおいて、供養し、こうすること八年に達すれば、行者に悉地(真言宗の仏語、成就という意味で秘法を修してして成就すること)なるものを与える。そして上品に成就したる者には、この本尊が、声を出して、三世のことを告げ悟らせ、中品に成就した者は、夢中に一切のことを告げ、下品に成就した者は、夢うつつの内にお告げはないが、一切ののぞみ、心のごとく成就すべし。といったようなことが書かれている。
即身成仏の秘法とは、つまり、両性交媾の修法と説き、男の僧は尼僧を求めて両者(男女)が密室において、いわゆる霊肉一致の修法を試みる。この修法を具体的に象徴する男女二神の抱擁・交接をいとなめる歓喜天が全国各所の密教寺に奉安されているのである。
インドにおいては紀元前四世紀ごろに書かれた性典「カーマ・スートラ」なるものが存在する。恋愛結婚を支持し、婚前求愛の必要性を強く叫び、男女の行為こそ人間同士が昇華し合える極限の美しい姿だと断言している。現代の破綻する夫婦の殆どが、肉体的・精神的な不調や性的無知から起因していることを考えると、この「カーマ・スートラ」の持っている内容は恐ろしいほど近代的であるように思える。
若い頃、あるタントラグループに参加した時の苦い体験のなかで教示を受けたことをもとに話を進めたい。どこかで見たことがあるかも知れないが、古い時代の錬金術の絵で、男と女が裸で三つの型の内側に立っているのがある。第一の型は四角、第二の型は正三角形で、第三の型は円である。これは、性行為のタントラ的分析であり、三つの可能性があるということだ。
普通の状態では、性行為をしている時、そこには四人がいる。二人ではない。そしてこれが第一の四角なのである。四つの角がそこにある。なぜなら自分自身が二つに分けられている。思考している部分と感じている部分とに。相手もまた、二つに分けられている。だから四人いることになる。二人の人間がそこで出会っていない。四人の人間が出会っている。そこでは深い本当の出会いは在り得ない。そこには四つの角があり、出会いは、ただの偽りの行為である。出会っているかのように見えるが、そうではない。そこには共有がない。自身のより深い部分が隠されている。同じように相手のより深い部分もまた隠されているのだから。そして、ただ、二つの頭だけが出会っている。ただ二つの思考のプロセスが出会っている。それは二つの感覚のプロセスではない。それは隠されている。
次に第二の型の出会いは、三角形に似る可能性がある。自身と相手は二個である。三角形の土台の二つの角である。突然の瞬間に二人はひとつになる。ちょうど三角の第三の角のようになる。これは四角の出会いより良い。なぜなら、少なくともほんの一瞬間でもそこに一体性がある。この一体性が健康と活力を与えてくれる。生き生きと感じ、再び新鮮になる。しかし、第三の型こそ最良のもの、この第三の型がタントリックな出会いである。二人は円になる。そこには角がない。そして出会いは一瞬のことではない。その出会いは実につかの間の出会いではない。そこには時間がない。そしてこのことは、男性が射精を求めれば、その時、それは三角の出会いになる。なぜなら射精がそこにある瞬間、接触点が失われるからである。最初の状態を保たなければならない。最後へと移動しないことである。どのようにして最初にとどまるのか。
「性交の始まる時、最初の火に注意を深く保ち、そしてそれを続けて、最後の残り火は避けよ」とタントラは云っている。最初の行為を終わらせることを急がなければ、行為は次第にセクシャルでなくなり、さらにスピリチュアルになってゆく。これこそひとつの歓喜、宇宙意識である。そして、もし、これを知り得ることができれば、これを感じ、実感し得るなら、性意識は非性的になる。と、教えを受けたのであるが・・・・・・。
そういえば数年前のフォーラムの発表で、草階女史が「操体とSEXの気持ちよさの類似」について論じておられたのを思い出すが、気持ちよさ、心地よさ、歓喜、昇天、オーガズム等は、みな二面性を持っているのではないだろうか。肉体原理としての気持ちよさがあり、精神原理としての気持ちよさがある。そしてそれらをつないでいる呼吸こそが鍵を握っているのではあるまいか。
一週間にわたってお送りしました呼吸シリーズはこれで終了です。
明日からは草階女史の登場です。よろしくおねがいします。
日下和夫